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短編小説・ビッグウェーブ

サーファーのケンは大会を前に町を逃げ出した。
それを後悔し続けながらも新しい土地で名を成した彼は、数十年ぶりに海辺の故郷を訪ねようと車を走らせた。

【ビッグウェーブ】

高波が来ていた。
今年の波はそうとう大きく育つらしいという噂が広まり、海岸には多くのサーファーたちが集まっていた。
絶好の波を皆が待っていた。
 
ケンは海岸沿いの町に育ち、わずか三才の頃からサーフィンに親しんできた。
彼もまた波を待っていた。
サーフィンの大会が終われば、彼はこの町を出るのだ。
彼は毎年大会で良い記録を出していたが、周りの人間たちが彼に期待するほど成績にはこだわっていなかった。
そんな彼だが、今年の大会に限っては思い出になるいい記録を出したいと思っていた。

町は活気づいていた。
一年のうちでサーフィンの大会が行われるこの時期が、町はもっとも賑わうのだ。
ビーチはもちろん、町のいたるところで小さなビキニをつけた若い娘たちの姿が見られた。
ケンは海岸沿いのスタンドバーのカウンターでランチをとっていた。
いつもお決まりの分厚いベーコンが挟まったサンドウイッチに齧りついた。
シャラン、と入り口のドアに下げられたウィンドチャイムが鳴って、薄暗い店内に女性の客が入ってきた。
彼女はケンに近づいていって、彼の耳元で二、三ささやいた。
二人は店を出ると、彼女が乗ってきた車で町を出た。
それきりケンは戻って来なかった。
まるで波にさらわれたように忽然と姿を消してしまったのだ。
結局その年は、皆が期待したような伝説に残るビッグウェーブは訪れなかった。
 
ケンはたまに悔やむことがある。
あの時、なぜチャレンジせずに町を出てしまったのか。
彼は怖かったのだ。
みんなの期待に応えられないことに。
いや、それよりも彼は自分に失望したくなかったのだ。
とにかくケンは、ビッグウェーブがやってくる前に町から逃げた。

ケンは希望する大学に進むことができなかった。
そのため希望の職に就くことも諦めた。
彼に残されたのはサーフィンの才能ぐらいだったが、それは彼の父親を納得させる類のものではなかった。
「ねえ、これから私とドライブに行かない?いい思いをさせてあげる」
あの日バーに入ってきた見知らぬ女は、ケンの耳元でそうささやいたのだった。
ただそれだけのきっかけで、彼は自分の生まれ育った町を捨てた。
その女が今どこで何をしてるのか、もちろんケンは知らない。
彼女とはモーテルに入り、いい思いをして、金を払っただけの関係だ。
その時点では彼の町はまだ近くにあったが、彼は戻ることよりも離れることを選んだ。
時にはヒッチハイクをして、時には徒歩で。
彼は潮の香りがしない内陸へと向かった。
 
ケンが久しぶりに自分の生まれ育った町に帰ってみようと思ったのは、今の自分の状態に満足することができたからだった。
すべてから逃げたおかげで、いらない苦労をしたし、回り道もした。
しかしたどり着いたある町で、自分はここに生涯を捧げようと決心をした。
そして努力を重ねるうちに人望を集め、現在は市長という立場になっていた。
土地の人たちは、初めはどこの馬の骨ともわからないケンに対して冷たかった。
しかし彼の一途さが人々の心を溶かしていった。
ケンはもう何からも逃げたくなかったのだ。
彼はあの日、町を出てしまったことを何十年と後悔し続けた。
そして今やっと、自分を許すことができたのだ。

ケンは車に乗り込み、生まれ故郷へと向かった。
彼の住んでいる町からは、走り続けても三日と半日かかる計算だった。
彼の車はサスペンションの効いたよい車だったが、市長が乗るにしては少し粗末すぎた。
けれど彼はその車に満足していた。
助手席には新調したばかりのジャケットが置かれていた。

ケンは車を走らせながら、色々なことに思いを馳せた。
厳しかった父親はすでに死んでしまっているのだろうか。
彼自身ももう五十三才という年齢だった。
生きていてほしい、と彼は願った。
立派になった自分の姿を一目でも見てもらいたかった。
でも、その前に謝らなければいけない。
ケンは今の今まで両親に一度も連絡を取っていなかった。
何度、電話しようと受話器を手に取ったかしれない。
しかしその度に恐怖が彼を襲い、結局電話はかけられなかった。
もしも親元に戻ることになれば、今度こそ自分はダメになってしまうような気がしてならなかったのだ。
でも、今の彼には自信があった。
自分の住む町に帰れば、信頼できる仲間たちもいる。
ただ、残念なことに妻はいなかった。
妻は病気で早々にこの世を去ってしまったのだ。
「お父さんに会いに行きなさい。後悔しないように」
生前、彼女は病床でケンの手を握ってそう言った。
妻の死もまたケンの背中を押していた。
彼はハンドルを握りながら涙ぐんだ。
 
ケンが故郷に着いたのは、夜明け前のことだった。
ビーチに立つと、懐しい空気が彼を取り巻いた。
ケンはこの地に歓迎されていることを肌で感じた。
時期はちょうどサーフィン大会の真っ最中だった。
長いビーチには様々なブースが設けられ、大会のポスターが貼られ、スポンサー会社の横断幕がはためいていた。
臨時に建てられたスタンドには、色とりどりのサーフボードが立てかけられていた。
ケンは砂のついたサーフボードに指で触れてみた。
自分でも驚くほどの思いが溢れて、ケンはむせぶように泣いた。
それからしばらくして彼は静かに笑った。
夜が明けたら海に出よう。ボードと共に。
なに、みっともない姿を晒すことになっても構わないさ。
彼はそう思った。
 
空はだいぶ明るんできていたが、辺りにはまだ人影は見当たらなかった。
海と空の合間にはうっすらとピンク色のベールが広がっていた。
ケンは海の正面に立って向き合った。
一日はまだ始まったばかりだったが、彼はすでに何かを成し遂げたような清々しい気分だった。
潮がすっと大きく後ろに引いた。
それは大きな波がくることの前兆だった。
これは先行きがいいぞ、ケンは思った。
波は瞬く間に沖の方まで下がっていき、ケンの足元には広大な鏡面ができた。
波は彼を遠巻きに見て、誘いかけるようにサワサワと白い泡を立てた。
「さあ、来るぞ」
彼の胸は高鳴っていた。
もしかすると、人生でいちばん大きな波と対面できるかもしれない。
ケンはサーフボードを取りに行こうかと思ったが、あきらめた。
もしも間に合わなかったら、歴史的な瞬間を見逃してしまうかもしれない。 
それにこんな老いぼれでは波に弄ばれるのがオチだ。
ケンは自嘲し、記念すべき景色を目に焼き付ける準備を整えた。
 
ケンは最初、目の前にある光景が理解できなかった。
彼が異変を感じて見上げた時には、波はすでに彼の頭をはるかに高く上回っていた。
ケンは波に飲み込まれた。
彼の死の現場を見たものは誰もいない。
百年、いや二百年に一度のビッグウェーブだった。

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