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ボブ_ ケース2「フランベされた男」(連作短編集・ボブとリサ)

日常のあるあるをシニカルに描く「ボブとリサ」シリーズ。
いつも不機嫌な妻が、ある晩ステーキ肉を買って帰ってきた。ボブはその分厚い肉を焼き始めたが。

【フランベされた男】

いつの頃からか、料理は夫であるボブの役割になっていた。
納得はしている。
妻は勤めで毎日帰りが遅い。対してボブは自宅で仕事をしている。
妻はいつも疲れていて、これ以上彼女のイライラを増殖させるより、ボブが時間を割くほうが精神衛生上ずっといい。
それになにより、稼ぎは妻のほうがずっと上なのだ。
ボブは自分が作る料理の味が気に入っていた。
我ながら「ウマイ」とボブは思う。
だからボブが料理を作るということでいいのだが、彼は自分でも説明しきれないモヤモヤを抱えている。
 
夜九時も過ぎると、今日も不機嫌な妻が帰ってくる。
「ただいま」も言わずに、ボブの前に立つ。
妻はハンドバッグの中から意外なものを取り出した。
それは分厚いステーキ肉だった。
「焼いて」とだけ、ため息混じりに彼女は言った。
疲れているのだ。
ボブは他のメニューを作るつもりで買い物を済ませていたが、もちろんそんなことを口には出さなかった。
「いい肉だね」ボブは言った。
「そうよ。高かったんだから。わざわざデパートの食品売り場に寄って買ってきたのよ」妻は言った。
ボブはニンニクを刻んだ。
「焼き方に気をつけてちょうだい。高かったんだから」
妻はその場でパンティーストッキングを脱ぎながら、ボブに指示をした。
ボブは鉄製のフライパンの表面をじっと見つめた。
そして白い煙が立ち上ったタイミングで肉を鉄板に滑り込ませた。
ジュワッという音とともに肉汁が散った。
「いい肉の匂いがする」ボブが言うと、妻はフンと鼻を鳴らした。
「ミディアムでいいかな?」
「ミディアム・レアよ」妻は言った。
彼女は飲みかけのワインを冷蔵庫から取り出すと、自分の分だけグラスに注いで飲んだ。
入れ替わりに、ボブが冷蔵庫の前まで行き扉を開けた。
「ちょっと、何をしているのよ」
「肉が焼けるまでの間にサラダを作ろうと思って」
野菜室に屈み込んだボブが妻を見上げて言った。
「ダメよ。焼き損ねたらどうするの?肉に集中して」
ボブはフライパンの前に戻った。
「そのワインを少し分けてくれないか。フランベするから」
そう言ってボブが振り返ると、妻がちょうどグラスに残ったワインを飲み干しているところだった。
「あら、もっと早く言えばいいのに。仕方ないわ。ブランデーを使ってちょうだい」
ボブがキャビネットからブランデーの瓶をとって戻ってくると、妻が空いたグラスに注ぐよう無言で促した。
ボブは再びフライパンと向き合った。
肉の塊に向かって、ブランデーを注ぎ入れる。
その瞬間だった。
熱風がボブの顔を舐めるように駆け抜けていった。
ボブは一瞬、自分の身に何が起こったのかわからなかった。
でも、頭上のチリチリとした音と異様な匂いに事態を把握した。
「ウァァ!」ボブは声を上げて、燃え上がった髪の毛を手で払った。
そう、ボブはフランベされたのだ。
「ちょっと!何やってるのよ!」
気づいた妻が慌てて近づいてくる。
火はすでに消えていた。
妻はボブの顔をじっと見つめる。
それからボブの頭をフットボールのように小脇に抱えると、チリチリに焦げた髪を丁寧に撫で付けて、何もなかったことにした。
「もう!心配かけないでちょうだい」妻はため息をついた。
 
食卓についたが、ボブの食は進まなかった。
部屋にはタンパク質が燃えた時の特有の異臭が漂っていた。
今更ながら、ボブの心臓はドキドキと高鳴っていた。
自分は炎に包まれたのだ。
向かいに座った妻はあっという間にステーキを平らげた。
夜中、ボブはベッドから抜け出し、洗面台の鏡に向き合った。
生え際からつむじにかけて焼け野原のような具合なのだ。
指で触れるとハラハラと髪が抜け落ちた。
ボブはゾッとした。
鏡の中で恐怖におののいた青白い顔がボブを見ていた。
これは本当に自分の顔なのだろうか。
自分はこんな顔をしていただろうか。
ボブには自信がないのだった。
ボブは恐る恐る、洗面台を後にした。
 
それからと言うもの、ボブは炎に包まれたあの時のことを思い出す。
そのイメージは何故かボブを魅了する。
ボブは再び炎に包まれたい衝動にかられる。
スーパーに買い物に行くと、ボブは思わずステーキ肉を手に取る。
頭の中には赤い炎に包まれフランベされた自分の顔が再現される。
ゾゾゾと体中の肌が泡立ち駆け抜ける。
それは性的な快楽にも似た感覚なのだ。
放り出すように、ボブは慌ててステーキ肉から手を離す。
しかし、妄想は止まらない。
気付くと、ボブの頭の中はフランベされることでいっぱいになっている。
いつの間にか、片手にフライパン、片手にブランデーを持っている。
足元から恐怖がせり上がり、ガチガチと歯が音を立てて震えている。
それでいて、火を点けたい衝動に取り憑かれているのだ。
「今度こそ黒焦げになって死んでしまうかもしれない」
ボブはやっとのことで欲望を断ち切ると床に崩れ落ち、ハアハアと息を荒げて涙ぐむ。

ガチャリと音がして、今日も不機嫌な妻が帰ってくる。
ボブは「おあずけ」を食らった犬のように、ペニスを半立ちにさせながら、妻がハンドバッグからステーキ肉を取り出す日を、今日か、今日かと待っているのだ。

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