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note継続1ヶ月-誰かになりたかった私へ-

1ヶ月,詩を書き続けてみた。
始める前は,「できるかな」と思っていたが,1ヶ月を迎える直前の2,3日が辛かっただけで,言葉が出てこないことはなかった。

ふと思い返してみると,10代半ばから,10年間ほぼ毎日日記を書くことができていたので,言葉をアウトプットするのには困らない人間だった。

詩というのは,"間"を自分が埋めようとしなくて済むので,続けられたのだと思う。"間"は,自分も読者も勝手に想像すればいい。

論文を書く時は,他者に想像の隙を与えない,誤解させないように事実を並べていく。”間”を作らない。その前後関係や論理の繋がりを,とにかく正確に書く。私はそれが苦手だ。すぐに想像で,隙間を埋めてしまうので,論理が飛んでしまう。


私の頭の中は,主語も述語も形容詞も,事実も想像も繋がらないまま,浮かんでは消える言葉たちで,常にいっぱいだ。
それらを,感覚のままアウトプットする行為が好きなのだと思う。

その行為で生まれた言葉のまとまりに,”スキ”をもらえるのは,とても嬉しい。
遊んでいるのを褒められたみたいで,なんだか少し申し訳ない気持ちになったり,くすぐったい気持ちになったりする。


私は,子どもの頃,「遊ぶ」ことが本当に苦手だった。
遊びは「意味がない」から,勉強とか運動とか「意味のある」ものをやってからしか,やってはいけないものだった。
何にも縛られずに遊ぶことには,常に罪悪感がつきまとっていた。


遊べない子どもだった私にとって,「詩を書く」ということは,かなり特殊な行為だった。
頭に浮かんだ言葉を,好き勝手に並べることは楽しい,のに,なぜかそれで賞がもらえた。認められた。

テストが早く終わったら,問題用紙の空いているところに,とにかく言葉を並べた。並べては,消した。自分が納得できる言葉の羅列をひたすら探した。

当時の私は,自分のことがわからなかったのだと思う。自分が何を考えているのか,何を求めているのか,それらの浮かんでは消える言葉たちを眺めることで,自分の気持ちを確認していたのだと思う。


そのくらい,私は,他人の「良い」で生きていた。私の思考や行動の全ては,他人に「良い人」と思われることにエネルギーを注いでいた。

今なら,当時の私に「他人の『良い』は人によって全然違う。全他人の『良い』を目指したら,八方塞がりになって,何もできなくなる。何もできなくなったあなたは,自分以外の全ての人が自分よりも優れていると思い込んでしまって,あなたを本当に気にかけてくれる人とそうでない人の区別がつきづらくなるから,やめときな」と声をかけるだろう。

最終目的地のない,とにかく『良い』を目指して,自己啓発本を読みまくる中学生だった私は耳を貸さないだろう,とも思うけれど,もし少しでも耳を貸してくれるなら,次の言葉を贈りたい。


「自分らしく生きるということは,自分と関わる重要な他人を自分で選ぶことができる,ということだよ。でも,他人も同じように重要な人を選ぶ権利があるから,他人を自分の行動で動かせるものでもないのだよ。目的や価値観が近い人なら,勝手に運命共同体になるものだし,自分を変える必要は全くないのだよ」


詩については,もうこれ以上のものは作れないな,という作品を作れるまで,無理せず書いていきたいと思います。











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