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【Podcast】#1「私はその男の写真を三葉、見たことがある」【自己紹介】

https://anchor.fm/shiawasenahito

『幸せな人しかたどり着けない場所』の第一回では、三人がそれぞれ、「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」から始まる自己紹介文を読み合いました。

【登場人物】

・けむりさん

2000年生まれ。詩人。座右の銘は「存在の耐えられない軽さ」

・ざくろくん

2000年生まれ。文学者、会社員。「一人の人間が世界を描くという仕事をもくろむ。長い歳月をかけて、地方、王国、山岳、内海、船、鳥、魚、部屋、器具、星、馬、人などのイメージで空間を埋める。しかし、死の直前に気付く、その忍耐づよい線の迷路は彼自身の顔をなぞっているのだと」(ボルヘス)

・秕目(しいなめ)

2000年生まれ。会社員。仕事もプライベートも不健康。




「第一の手記(けむりの場合)」


 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

 一葉は、こうである。

 うとうととして目が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めていた。
 それから、その女と、昨晩はどういうわけか、同じ部屋に寝ることにだったのだった。
 あれは、どういうことだったのだろう。
 一晩中気が落ち着かなかった。逡巡した挙句、適当な言い訳をして、女と自分との間に仕切りをこしらえて夜を明かした。
 翌朝、女は別れ際に、「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と告げた。
 気を紛らわそうと鞄の中から適当に手に取ったものの、無論読む気にはなれない、フランシスベーコンの論文集の、二十三頁に顔をうずめながら三四郎は、そんな昨晩のことを考えていた。二十三年の弱点が一度に露見したような心持であった
 どうも、ああ狼狽しちゃだめだ。自分は学問をやるのだ。有名な学者に接触し、趣味品性の具わった学生と交際するのだ。
 そう気丈に考えを巡らせていると、向かいに座った男に話しかけられた。
男は言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より、頭の中が広いでしょう」
「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
 その言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持がした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

 第二葉の写真は、こうである。

 汗ばむ季節、地元の土手で見る夕日を背に受けて、涼しい風が僕らを梳かしていった。
 呼び止めて振り向いた君の瞳、君の短い髪が揺れて隠れた横顔、表情、
 " 大切なものだけが、大切ならいいのに "
 君の短い髪に触れて気付いた気持ちが、すべてだったあの日のこと。

 もう一葉の写真は、こうである。

 テルちゃんはある日、お互いぐずぐずな、恋愛と言ったらいいのか、わからない一方的な関係を、それぞれ自分を決して一番に置かない相手と結んでいる同士の中原くんに、急に呼び出された。
 中華料理屋で話を聞いたところ、中原君はもう、その思い人であり、テルちゃんの友達でもある、葉子さんを好きでいるのをやめるのだという。
 それから外に出た二人は、コンビニの駐車場と公園の境目で話を始めた。テルちゃんは金麦を、中原君はエビスビールを手に持って、公園の入り口にある柵の、低い位置に中原君が、高い位置にテルちゃんが座っている。
 おれが葉子さんをダメにしているんですよ。そう言うと中原君は、中国の王様の話を始めた。王様の要求をすべて家臣が飲み続けていたら、その要求がエスカレートして、最後にはそれが残酷かどうかの区別がつかなくなってしまったのだと。中原君は、それは王様が残酷なのだと思っていたけれど、実はそれを助長させていた家臣が残酷なのだと言った。
「まあ、つまり、なんだかよくわかんないんですけど、愛って何なんだろうって思ったんす」
そう言って中原君はビールを飲んだ。
「なんだそれ」
テルちゃんは手元の金麦を見つめて吐き捨てた。「なにが愛だよ。愛がなんだって言うんだよ」
 テルちゃんは持てる力をこめて、中原君と対峙した。
「それってさ、自分がどこまでも葉子を受け入れちゃうんじゃないかって自分で自分が怖くなったってことでしょう? 中原君言ってたじゃん、すげえ寂しいときに思い出してもらえる存在でいたいって。それでいいんだって」
「俺わかったんですよ」
中原君はテルちゃんの目をじっと見つめた。「無性に寂しくなるのは、俺とかテルコさんみたいな人間で、葉子さんはそうはならない人なんだって。だから葉子さんみたいな人に俺ら寄ってっちゃうんすよ」
「そんなことないよ、葉子だって寂しくなるよ」テルちゃんは語気を強めて言った。
「そうっすかね」
中原君は小さく首を振ると目線を手元に落とした。
「当たり前じゃん」
テルちゃんは中原君の顔を少し高くなった位置から必死そうに見つめている。「中原君の言っていること全部きれいごとだよ」
 そう言われた中原君はテルちゃんの顔を見上げた。テルちゃんは中原君と目を合わせたまま続ける。
「手に入りそうもないからあきらめた、って正直に言えばいいじゃんか」
 中原くんは口元を震わせて、それからにこりと笑った。
「そうっすね」
 テルちゃんは唖然とした表情で中原君を見ている。
「俺じゃなくてもいい、誰でもいいって言うのが、もう正直辛いんすよね」
中原君は涙ぐむ声をごまかすことなく続けた。「俺、ほんとうに好きなんすよ、葉子さんのこと」
「だったら」
テルちゃんは中原君の言葉を遮ろうとしたけれど、続く言葉が出てこなかった。
「もういいんす。もういいんっすよ」
中原君は虚空を見つめて、自分のことを諭すように告げた。「結構色々限界だったんで」
そしてテルちゃんに、自嘲的で媚態的な笑みを投げかけた。「諦めることくらい自分で決めさせてくださいよー」
 テルちゃんは依然として唖然とした表情で中原君を見つめていた。それから、中原君が視線を切った折に、手元の金麦に目を落とした。
 中原君は鼻をすすってうなずくと立ち上がった。
「じゃあ俺もう帰ります」
 テルちゃんは座ったまま上目でそれを見ていた。
「テルコさん来てくれて嬉しかったです」
そう言うと中原君はテルちゃんに背を向けて歩き出した。
「馬鹿だよ」
テルちゃんは中原君の背中に言った。
 両手でエビスの空き缶を持っている中原君はテルちゃんの言葉に半身で振り返った。
「中原君のばか」
テルちゃんは中原君を睨みつけて言った。
 中原君は寂しそうな表情を変えずに数秒間言葉を探して立ち止まり、そしてにこりと笑って言った。「幸せになりたいっすね」
「うるせえ、ばか」
テルちゃんのしかめ面に、寂寞さが翳った。
 中原君は最後に唾を吐き捨てると、背中を向けて歩き出し、もう振り返ることはなかった。

<注>
第三葉について、放送で収まらなかった分を加筆したバージョンです。
<出典>
1.夏目漱石「三四郎」
夏目漱石 三四郎 (aozora.gr.jp)
2.Base Ball Bear「Short hair」(https://youtu.be/kDc2VebfUdksi=RvoOg04gwzHvKInG
3.「愛がなんだ」(今泉力哉監督)
映画『愛がなんだ』公式サイト (aigananda.com)


「第二の手記(ざくろの場合)」


 私は、その男の写真を三葉、見たことがある、というはしがきで始まる有名な小説を、実はこれまでに一度も読んだことがなかった。仮にも小説を頻繁に読み、その上小説を書くことにまで手を染めている人間がこんなにも名の知られた小説を読んだことがないのは、それこそ恥の多い、ことなのかもしれないが、基本的に読みたい本しか読まないずぼらな人間なので、こういうことはときどき起きるし、正直なところ恥だとは思っていない。だから、私は、その男の写真を三葉、見たことがある、という書き出しで始まる自己紹介を書くことになって、初めてその小説を手に取ったのだった。
 乗り換えの駅の三階に小さな本屋がある。そう大きな本屋ではないが、生活の中でいちばん立ち寄りやすい本屋で、かつ持っているポイントカードが使えるお店だから、それなりに足を運んでいる。文芸誌の目次をぱらぱら見たり、好きなバンドのインタビューが載った雑誌を立ち読みしたり、あるいはただ単に並んでいる本をぐるりと見て回るだけ、ということが多いけれど、ちゃんと本を買うこともあって、そして、私は、その男の写真を三葉、見たことがある、という書き出しの小説くらい有名な小説であればまず間違いなく置いてあるだろう、と思って夕方、駅の階段を登ってお店に入ると、その黒の背表紙の文庫本が棚の中に並んでいた。そればかりか同じ人の書いた別の、これもまた有名なのに一度も読んだことのない小説がいくつも並んでいた。その中から目的の一冊だけを引き抜いてレジに並び、ポイントカードの中にあったポイントを全部使って、少しだけ安くなった黒い文庫本を購入して家に帰った。
 もちろんこの小説の安い古本がたくさん流通していることも、インターネットに全文が公開されていてお金を払わずに読めるということも知っている。でも、タダで読めるものに対してわざわざお金を払って綺麗な本を買うということが、とても贅沢なことに思えて良い気分になれるので、こういうことはときどきやっているし、正直なところ僕はたぶん小説という文字列よりも、小説の書かれた本そのものが好きなのだと思う。だから部屋にはどんどん読んでいない本が溜まっていくし、読んだことのない本があればいつか手に取りたいと思ってしまう。
 と、こんなふうに描写をだらだらと続けているといつまで経っても終わらないので、この辺で終わることにする。自己を紹介できたかはよく分からない上に、せっかく買って読んだ本の感想さえまだ言えていないのだけれど、それはまた今度話すことにしたい。まだ読んでいない本がたくさんあるように、まだ話していない話がたくさんあることが、今はこの先の長い時間への祝福のような気がしているから。

「第三の手記(粃目の場合)」



「あなたは…」
 という昭和四十一年のドキュメンタリー番組がある。構成は寺山修司で、当時はまだ革新的だった街録手法で矢継ぎ早に質問を飛ばす。
「あなたは幸福ですか?」
 道ゆく人は答えに窮する。「うーん、どうかな…」「えっ? わからないですが」「さあ…」。それぞれ絞り出すのは、常識の範囲内の一般論、不満への嘆き、曖昧な現状肯定——など様々だ。答えを振り返る間もなく、レポーターは歯切れ良く次の質問に移る。
「戦争を思い出すことはありますか?」
「いま欲しいものはありますか?」
「人に愛されると感じることはありますか? それは誰にですか?」
「昨日の夜は何をしていましたか?」
 質問に意味はない。ただ自分についての認識が足りていない、その言葉を持ち合わせていない、そんな不消化の蟠りが残るだけ。

 最後に聞きますが、あなたはいったい誰ですか?

 社会で自己紹介を求められる時、たびたびこの番組を思い出す。
 いつも気が逸っている。「うーん、どうかな…」と口走りたくなるのを抑えて、とりあえずプロフィールを羅列する。会社の所属、出身、年次、最寄り駅、好きな何某。あなたと会うのはこういう目的なんです、だからよろしくお願いします、と形だけ抱負を添える。
 機転の効いた答えが出せる人はさぞ生きやすいんだろう、と思う。ただやはり、発展性はない。第一印象で相手を値踏みする横風な大人にも要注意だ。自己紹介は相手とやりとりを進めるための形式上のパスポートに過ぎない。結局はその先の目的———継続的な関係作りや、業務上の打ち合わせ、といった実務のために消費されてしまう。知らぬ間に相手側の名簿に登記されていて、次会った時には、
「秕目さんは確かこうでしたよね?」
 と念を押される。そのたびに「プロフィール上はそうですが」などと奥付の作者欄を読み上げられたみたいな、情けない気分になる。
 そんな生き方が連続的に続いてしまう日常の不満を、上司にぶつけたことがある。
「最近、ちゃんと自分を言語化する機会が減ったんですよね」
 顔を顰められる。
「『自分を言語化』って変じゃない?」
 仕事の手際も情報の幅も随一の彼にとって、その言い回しはあまりにも曖昧に聞こえたのかもしれない。えっ分からないですか、瞬間的に詰りたくなった。私の中では当たり前過ぎる概念だったので、その趣旨を図りかねる上司が歯痒かった。
 しかし例によって、私は上手く答えられなかった。

 自分・を・言語化・?

 単純な語の接続にさえつっかえる。考えがまとまらない。言葉は何か外側の「他」の意を示すためのメディアであり、内側の「自」の意を示すためのメディアではないのではないか、そんな早計な理解も過ぎる。しかし話題は次へと移っている。
 上司と別れた後、私は煙草を吸いながら思い直した。大学時代から変わらない帰路で、もっと言葉に敏感だった頃を顧みながら。やはりプロフィールを羅列するだけでは不十分なのだ、と。仮に所属や出身、年次が違ったとしても、私は私だ。私という固有名は、確定記述を越えた先へと向かっている。

 私が理想とする自己紹介は、形式上のパスポートなどではない。言葉を積み上げることで発展的に自分へ近づく、双方向の手紙のようなものなのだ。

 こういう金言めいた気障な思い付きも、いまや書き散らす場所はない。そして思い付くことも、しめしめと日記に残す習慣もなくなりつつある。
 上司は何を伝えたかったのだろうか? 自分を言語化するのはエゴイスティックで猥褻な欲望だと突きたかったのだろうか? あるいはもっと居丈高に、仮に言葉を使うのならば、他者の、そして社会の効力のために使いなさい、と説きたかったのだろうか。
 自分を言語化する暇すらもないくらい、他者の、そして社会に役に立つ効力感に満ちた生き方は、確かに素晴らしいんだろう。

 最後に聞きますが、あなたはいったい誰ですか?
 
 あらゆる可能な答えに「わたしは…」生きている。存在理由を選択できると信じ、主体的な自由を謳歌している。
 それが時代の錯覚だとしても、日々可能な自分に尊厳を求めてきた——言葉に敏感な誰かに、私はいつまでも親しみを覚えるのだと思う。他者や社会の役に立ちたいのかは分からない。ただ言葉を積み重ねさえすれば、いずれ自分の、他者や社会の意に辿り着く可能性はある。辿り着くことはないにしても、より発展的に近づくことくらいはできるかもしれない。
「最近、ちゃんと自分を言語化する機会が減ったんですよね」
 そう自戒したあの時の感情を、そして他者と社会への効力について、私は自己紹介のたびに思い出すだろう——というか、思い出さずにはいられないのが自分だと割り切って生きるために、また可能な言葉を残したくなるのだ。手元が狂わないうちに。いつか「あなたは…」から始まる手紙をしたためるために。




・「私は、その男の写真を、三葉見たことがある」という表現は太宰治「人間失格」(太宰治 人間失格 (aozora.gr.jp))をオマージュさせていただきました。


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