見出し画像

究極のシンプルからしか、多様性は見えない。

はじめまして、日中ダブルのシェリーです^^

おわかりの通り、私は異なる国・文化という分かりやすい多様性の中で育ってきました。多様性とは言わば「違い」で、「みんな違ってみんないい」なんて言葉も良く聞くようになりました。しかし、なんて美しくて居心地の悪い言葉なんでしょう。

12歳で日本に来た私は、誰にもない「中国語を話せる」という違いに誇りを持つこともあれば、「みんなと違う教室で日本語の勉強をする」という違いを嫌いになることもありました。

違和感と葛藤を抱きながら、私は大学で国際社会学を学び始め、抑え込んでた感情は独りだけのものではない、そして違いは美しいものだと学びました。国、文化、性、福祉…そんな違いが当たり前の世界、違いを学問にする世界、違いを特技にする世界は本当に居心地の良いものでした。

だから私は更にのめり込むべく、アメリカに留学をしたり、ベトナムで奇形児のお世話をしたり、更には世界一周の船Peace Boatに通訳として乗船し、世界の問題を世界の人たちと向き合ってきました。

しかしなぜでしょう。声高に言えないけれど、どうしても消せない気持ちもあります。なぜだろ? 

なぜ人間の基盤は「普通」という統一性にあるのか? なぜマイノリティが弱者のような構図なのか? なぜ違いを楽しみたいのに、すぐにカテゴライズしようとするのか? 日本に来た当時の矛盾な気持ちが蘇ったようでした。

そんな中、こんなことを教わりました。

「究極のシンプルからしか、多様性は見えない。」っと。

画像1

目から鱗でした。多様性を認めるために、バラバラな存在の中をぐるぐるしていました。しかしそれでは、そのぐるぐるは複雑になっていく一方で、永遠に終わらないゲーム、心から楽しめないゲームのようでした。

そうでなく、一度すべての観点をなくし、何も存在しないところからこの世界を観れたときこそ、本当に神秘溢れる、多様な世界を楽しめるのだと痛感しました。そして、多様性というのも「認めるのでもなく、楽しむものでもなく、生み出すもの」だと学びました。

AIによって人間の尊厳が侵されていく中、この「究極のシンプル」に辿り着き、そしてそこから出発することが本当の尊厳社会、平和世界を作るのだと思っています。この「nTech/認識技術」がそれを可能にします。技術だらかこそ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?