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「言葉の海を渡る」辞書の思い出

ついさきほど、2代目の電子辞書を選び、買った。

10年ほど使って全く電源が入らなくなってしまった電子辞書を感謝を込めて葬り、もうすぐあたらしい辞書をお迎えする(あえて6年前に発売したものを買ったけど)。

このnoteは、供養も兼ねて、書く。

「辞書」と私

私は結構、「辞書」そのものとの付き合いが多いほうだと思う。

後述するが、1代目の電子辞書との出会いは高校のときだ。

それまでは、小学校1年生から高校に入るまで、紙の辞書を使っていた。

そう、小1から私は辞書とたたかっていたのだ。このときは辞書は仲間というよりもはや敵だった。

私が通うことになった小学校は私立の小学校で、そこは帰国子女の生徒が沢山いて、「グローバル教育」とか「小1から英語の授業」を打ち出しているところだった。他にも自然が豊かだとかいい意味で校舎が古めかしいとか素敵な特徴が沢山ある学校で、私の親はむしろ「英語云々」以外の部分に惹かれて私はここに通うことになった。

その他の教科は普通の公立の学校とまったく同じカリキュラムだと思うが、英語の授業だけは、1年生から2つのクラスに分かれていた。

英語が特に出来る10人ほどの子は「国際クラス」で、そのほかの子は「普通クラス」。要するに、帰国子女や”ハーフ”の子が自動的に国際クラスに入り、それ以外のいわゆる「純ジャパ」の子は普通クラスという感じだった。

初めの半年間ほどを普通クラスで過ごし、そこではアルファベットとか、色の名前動物の名前を知って、ゲームをして勝ったらちょっとしたシールやお菓子なんかがもらえたりして、楽しかった。

そんなある日、保護者面談だか何かの折に、「Sheena散歩ちゃんは発音がとてもいいので、国際クラスに入りませんか」と先生が私の母に持ちかけた。

壁に100%立ち向かう、いばらの道をいくがモットーの母、嬉しくなって2つ返事でOKした。「発音がいいんだって。やっぱり音楽やってるから耳がいいのかなあ!」とか言われた。

いやいやいや、あなた知らないでしょ。無理だよ、みんな英語ペラペラなんだよ?日本語よりも英語のほうが得意な子がほとんどなクラスなんだよ。発音はたしかに良いのは自分でもわかっていて、ピアノを教えてもらってるせいかも、でも発音が出来るからって英語そのものはできないんだよ。

そういう私の不安や文句は一蹴され、突然国際クラスで学ぶことになった。ゲームはもう無くて、大量の宿題が課されるようになり、文法も単語も習っていないのに、「週に2回、英語で日記を書きましょう」と言われた。

私の「出世」を喜んだ祖母から、お下がりで紙辞書を貰った。(今考えても、さすがの物持ちの良さだ)

英語の素地が全くない私にとって、その日から辞書は敵になった。慣れない紙辞書を引くのは時間がかかって、リーディングの場合5語に2語くらいは調べないと英文が読めなかったし、日記を書く場合に際しては言うまでもない。

日本語だったら本を読むことも、言葉を紡ぐのも好きなのに、言語が違うだけでこんなにも時間がかかり、言いたいことや出したいニュアンスのほとんどが出せない。頭の中には書きたいことの思い出や感情が鮮明にあるのに、「今日は海水浴に行きました。楽しかったです」みたいな、そんなことしか言えない。

くやしくてくやしくて仕方なかった。

体系的に文法を習う必要のない子ばかりが集まる「国際クラス」の中で、文法をやらないのでいっこうに英語は出来るようにならず、それなのになぜかずっと国際クラスから落ちることはなく、ずっと辞書を引き続けた。
朝4時に起きて泣きながら「ハムスターを飼い始めました、名前はレオンです。かわいいです」みたいなことを書いていた。

そうして数年が経ち、辞書を引かなくてもわかる言葉が増えていき、辞書を引くことが悔しいことになっていき、受験して入った中学校では、文法を習ったことでよりするすると英文が読み書きできるようになり、私はびっくりするくらい「英語が出来る人」だった。

無駄じゃなかったらしい、とようやく辞書を味方だと思えるようになり、中一の2学期に英検準2級を、3学期に2級を取った。辞書を引くのが、楽しかった。

高校も受験して進学校に入り、中学までは全教科「学年で1番」だった私はあっけなく入学直後に折れた。理系科目、全然できない。隣の男子のほうがよくできる。そのうち、「向き不向き」を受け入れるか、と思うようになった。

でも英語だけは。
英語だけは、負けるもんかと思った。

「泣きながらご飯を食べたことのある人は大丈夫、やっていけます」という言葉をどこかで読んだことがあるが、それに似て「私は泣きながら辞書を引いたことがあるんだぞ」と思っていた。

16歳なりの強い強い自負。辞書を引けば、わからない文章がどうにか読めて、言えないことが言える。その喜びを、私は小1で知ったんだぞ、と。

そんなとき、祖父が電子辞書をくれるといった。ねだったわけでもないが、たまたまだ。


1代目の相棒との出会い

はじめての電子辞書は、CASIOのXD-A4850というモデルだ。2010年発売のモデルだから、当時は発売してすぐのものだったのだろう。

英語の授業が好きで、負けたくなくて、たくさん使った。授業中は、派生語とか、英英辞書で同じ単語を調べるなどして、面白いなぁとワクワクしていた。
ほかにも、国語辞典や古文の辞典や漢字の辞典や、とっさの英会話とか世界史辞典とか、世界の名言、名スピーチ集とか、マナー辞典とか、いろいろなコンテンツが充実していて、辞書なんだから英語の辞書が入っているんだろうとしか思っていなかった私は、ずいぶんいろんな世界が覗けるものなんだなと感動したことを覚えている。

10年の活躍

3年はあっという間に経ち、受験は英語だけではないこともあり、私は浪人してしまった。ぽっかりと生まれた「孤独」「時間」の中で、おそらくすべての浪人生が味わう不甲斐なさなど味わいながら、勉強をした。

そのなかで英語は圧倒的な得意分野だったため、浪人中は全然時間をかけず、電子辞書は眠っていた。

そうして入った大学は、語学に強い大学だった。

英語も私くらいできる人は沢山いて、なんなら読み書きだけでなくスピーキングも出来る人も沢山いて、かなりコンプレックスを感じたけれど、コンプレックスに苛まれながら泣きながら辞書を引いた経験があるから、そんなことじゃ負けない。さあまた辞書を引くときが来たんだよ、と思った。

そうして電子辞書を引き、第二外国語のフランス語に手を付けた時はかなりいらいらしながら紙辞書を引き、言葉の難しさ面白さを知った私は、留学にあこがれた。

自分の興味のある世界において先進的な場所にいきたくて、月並みだがアメリカに留学した。

もはや私の第一の興味は「語学」「英語」そのものにはなかったけれど、大学の授業で英語辞書は必須だった。

留学生だからと言って容赦なく同じ課題が与えられたので、家で放課後で課題をやっつけるため、辞書を引きまくった。用語も専門的で、またも5語に2語辞書を引くような日々のはじまりはじまりだった。

休日に遊びに行くときも、英語がわからないせいで何か大変なことが起こったらとへんな心配をしてしまい、電子辞書を持ち歩いた。

そんなふうにして留学を終え、就職ではまったく「語学」を活かそうと思っていなかったけれど、入ることにした会社でたまたま英語力が活きるプロジェクトに入ることになった。

学業も一区切りついたことだしもうほとんど使うことはない、と思っていた電子辞書だが、変わらず活躍することになった。外国人同士の会議の議事録を取ることになったときも、私の精神安定剤として側にあった。

そんな電子辞書がある日突然、動かなくなった。電池を入れてもどこをどういじってもうんともすんとも言わない。突然の別れが苦手すぎて、電子辞書が壊れて泣いた。思っていたよりも愛着があったんだな。

思えば紙辞書のおかげで英語という言語と半強制的に親しくなり、

この辞書のおかげで私は英語を武器にすることが出来た。

大好きな三浦しをんの小説「舟を編む」で、辞書は言葉の海を渡る舟という表現が出てくる。

本当にそうだと思う。日記のために、英検の為に、受験のために、そして私の人生を拓くために、辞書で英語の海を渡ってきた。

そう思うとへんにじーんとしてしまった。

しかし泣いているヒマはない。、次の辞書を手に入れなくては。


2代目の相棒は

性能や値段を調べて機種を決めるのに、けっこう脳みそをつかった。
それでも結構な達成感を得ている。

まだ届かないが、CasioのXD-U9800をamazonで破格で買った。

最新モデルの4分の1くらいの値段だったのでほくほくしている。

2014年発売のモデルなので、中の辞書は旧バージョンだったりすることもあろうが、いちおう語学をやってきた身としては、辞書の改訂版による差は、大きすぎる痛手ではないことは想像がついた。昔から続く「言葉」というものが、10年に一度の改訂でそんなに変わってしまうものではないはずだ。

通訳になるわけでもないので贅沢すぎるプロ仕様の辞書からも目を背けた。私にはこれがちょうどいい。

新品と言えどすこーし古いこの電子辞書で、私はこれからも言葉の海を渡っていく。



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