神さまの存在意義を問う大傑作!『神さまごっこ』/私は神さま⑦
前回の記事で、簡単ではあるが、信仰と奇跡について考察した。
かつて、例えばイエス・キリストが奇跡の聖職者として崇められていた時代。もしくは、卑弥呼が鬼道を用いて大衆を導いていた時代。そのころ人間の身の回りは、謎と奇跡だらけだった。人知を超えた現象に人々は畏怖し、感謝し、信仰したのである。
ところが科学が発展し、謎に満ちていた「超常現象」は、科学的に説明できる単なる「自然現象」へと格下げされた。すると、それまで奇跡を信じていた人々が、世の中のことをは合理的に説明できると思うようになった。
これは、信仰面でいえば、神が死んだことを意味する。信心の発端は、奇跡の出来事だったからである。キリストは復活したからこそ敬われたし、卑弥呼は太陽を隠したりしたので、国のトップに君臨できた。
つまり、奇跡と信仰はワンセットだったのである。
そんな信心薄き者が増えた世の中で、神さまはどのように生きていかなくてはならないのか。神さまと奇跡について、さらにもう一本同テーマを扱った作品が存在するので、本稿ではそちらを見ていきたいと思う。
本作の主人公は、出世競争から遅れてしまった一介のサラリーマン、上居(かみい)。かつての部下が課長となって、「クン」付けされるようになった。家族(妻と息子)からも、何かとアゴで使われてしまう便利屋の扱いとなっている。
昔からそうだったと言えばその通りなのだが、上居は長い人生、誰かに支配されているような人生を送ってきたのだ。楽しみにといえば、晩酌としてウイスキーをチビチビ飲むことくらいなのである。
ある夜、夜風にあたって散歩をしていた上居は、「一生に一度でいいから、人を支配する立場に立ってみたい」と思う。力を握ったことのない人間の、切実な願望である。
すると、その独り言を聞いて、「その望みを叶えてしんぜよう」と、本物の神さまが声を掛けてくる。当然、ユメだと思う上居だが、神さまは「なぜもっと素直に神を信ぜぬ」とご立腹の様子。
ここから、上居と神さまが「神と信仰」についての会話をするのだが、これがラストにも効いてくる重要なセリフとなっているので、ほぼ全文抜粋してみたい。
このやりとりでのポイントは、元々神さまがいて、神の力を人間に示したのではなく、人間が神の存在(概念)を信じて、それを強めていったから神さまが生まれたという部分になろう。単に「神→奇跡」ではなく、「信仰→神→奇跡」だと言うのである。
神さまは、なぜこんなことになってしまったのか、激昂しながら解説する。
そして、このままでは心からの信仰心を持つ者は減っていき、やがて最後の一人が死んだときに、神さまは消滅するのだと言って、嘆くのである。
そんな憂さを晴らす目的もあって、久しぶりに人間の望みを叶えようと地上界に降りてきた神さま。上居に向かって、「君の手で君の世界を創らせてやろう」と投げかける。その世界では上居が創造主で、万能の力を持つという。
「神様セット」というドラえもんの道具に出てきそうな3点セットを上居に手渡す神さま(実際に似たような話がある)。頭の上に浮かせる輪っかと杖と衣である。使い方は簡単で、念じるだけ。神が用意してくれた、今は何もない「新空間」に、神の栄光が永遠に讃えられるような世界を創れと言われるのであった。
さて、ここからは藤子作品でお馴染みのテーマである「世界の創世」が始まる。以前解説した『創世日記』や、ドラえもんの大長編『のび太の創世日記』などが、そのジャンルに当たる。
また、似たようなテーマの作品としてドラえもんには『地球製造法』というお話もあるが、これは次稿で取り上げる。
さて、上居は半信半疑で創世を始める。神さまに貰った「新空間」は真っ暗で、上下左右もない空間である。まずは世界を光で満たす。そして足場を求めて、陸地を作る。そうなると、次は海。そして、草木や花、魚や鳥などの生物を作る。
いつの間にか夢中になってしまい、気付けば朝。一旦創世は中断して出社する。遅刻してしまったために、後輩の上司・江里戸に謝る羽目となる・・・。
さて、次は人間を創ることにする。上居は神を畏れ敬う善良な人類を育てようと考える。正しい者が報われるような世の中を作ろうと、理想に燃える。
新空間に入り、粘土をこねて、最初の人類アダムとイブをこしらえる。知恵の実を用意し、彼らの信仰を試すように、この木の実を絶対に食べてはいけないと注意する。
・・・ここまでの創世過程は、まるでどこかで見た流れとそっくり。そう旧約聖書である。状況確認にきた神さまに、「独創性のない男」と指摘される。上居は「素人の神だもの」と反論する。
この創世にあたっては、神さまは「自分の失敗を繰り返さないように」と伝えていた。今の世の中と同じ作り方をしていては、神さまの失敗も踏襲してしまうような気がするが、その懸案は当たってしまう・・・。
あっさりと知恵の実を食べてしまうアダムとイブ。永遠の命を失い、楽園から放出となるが、二人は「もう世話にはならないもん」と悪びれず、手を繋いで人間界へと降りて行ってしまう。
エデンの東を居住地にしたアダムとイブは、その後繁殖を繰り返し、町を作る。天なる神に迫ろうとバベルの塔を建築し始める。それがなぜか途中で工事は中断となるのだが、これは神さまへの畏怖ではなく、日照権で揉めたのだという。
ちっとも神を敬わない人間たち。上居は世界創造の興味を失い、そのまま世界を放っておく。神さまが訪ねてきて、「洪水でも起こして人間世界をやり直せ」とアドバイスしてくるが、実体のある人間を洗い流すことは憚られる。
上居は自分には神の資格はなかったのだと思い、さらに何日も世界を放置してしまう。その結果、新空間は何千年もの年月が経ち、人口が爆発してビルが立ち並ぶ現代の世界と瓜二つとなってしまう。
久しぶりに世界に降りてみると、神を名乗った上居に向かって若者が大爆笑する。現代社会同様に、信心が失われた世界へと堕ちていたのである。
最早手に負えない・・・。けれど本物の神さまから、神の否定は上居の存在も否定されることを意味するのだと脅され、ノアの大洪水から何千年も遅れてしまったが、世界を大洪水で襲わせる。これで、不信心な人類は一掃されることとなった。
けれど、上居は所詮素人神さま。神の所業を行使したものの、これは大量殺人であると考えて、心に痛みを感じてしまう。しかし、この神の決意が徹底できなかったことが、上居の悲劇を呼ぶことになる・・・。
上居は現実世界で、文字通り、影が薄くなっていることに気がつく。このままでは、上居の存在感だけではなく、上居の存在自体が消えて行ってしまうことを意味する。
慌てて創世した世界に降り立つと、洪水を生き延びた人類はさらに高度な科学文明を築いていた。公園のアベックに「神を信じるか?」と尋ねると、「カミ?それ何国語?」という答え。「神さま」は既に笑いの対象にもなっておらず、死語と化していたのである。
最初に本物の神さまは言っていた。信仰あっての神、そして奇跡だと。上居は「不信心者めが!!亡ぼしてやる」と、杖を掲げるのだが、ほんの少しの水が飛び出すだけ・・・。信仰なき世界において、奇跡を起こす力はとっくに失われていたのである。
崇められない神は無力。いや、それどころか、神の存在自体が危ういものとなる。地上社会に戻って来た上居だが、既に自分の影は見る影もない。そして風に舞う枯葉が自分の体を突き抜けていく。上居は、消えかかっているのである。
かくして、上居は叫ぶ。
この願いが届いたかどうかは、神のみぞ知る、といったところだろうか。
神さまと信仰について、作者の明確な意思を感じる作品である。作中の神さまの嘆きは、藤子先生の嘆きに重なるように思えるのは、僕だけだろうか。
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