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『自分会議』でさらに深く考える/タイムパラドックスとは何か?上級編

「存在の輪」として有名なタイムパラドックスをテーマとした作品を「ドラえもん」「キテレツ大百科」の中から2本を選んで紹介・考察してきた。今回はタイムパラドックスとは何か?「上級編」として、同テーマを盛り込んだ大人向けのSF異色短編を見ていきたい。

ちなみに初級編・中級編の記事を最初にお目通ししてもらっておくと理解が進むかと思うので、是非一読のほど。

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『自分会議』「S・Fマガジン」1972年2月号
/大全集「SF異色短編」4巻

藤子先生の代表作と言えば「ドラえもん」なのは間違いない。「ドラえもん」はSF(すこし・ふしぎ)だとF先生は日頃語っていたが、本来のSFの意味であるサイエンス・フィクションの「サイエンス」の部分を、厳密に描いていないという点で、少し謙遜してそういう言い方をしていたようにも思う。

しかし、「ドラえもん」は紛れもなくSF(サイレンス・フィクション)なのである。特に、「タイムマシン」を使った時間をテーマとした作品を毎月のように発表していたが、それらは立派なSF作品である。

もちろん、SFと言っても、子供向けで、分かりやすいお話に限定される。終わり方も、ハッピーエンドか、ギャグでオチをつけている読みやすい作品がほとんどであろう。

ところが、タイムパラドックスは、シニカルな結論を導き出すことも十分に可能だ。F先生がドラえもんやキテレツ大百科で明るく楽しい子供向け作品を描きながら、それと並行して大人向け短編において、不愉快なバッドエンディングを迎える作品も発表しているのだ。


今回見ていく『自分会議』は、タイムパラドックスの二大ジャンルである、「存在の輪」「親殺し」の両方の要素を組み込んだ意欲作となっている。タイトルから想像できるように、複数の「自分」が話し合うお話なのだが、はっきり言って読後感は愉快ではない。

同じようなテーマで、「ドラえもん」の『ぼくを止めるのび太』という作品があるが、こちらと読み比べてもらうと、顛末は似ているのに読後感は大きく異なることが理解してもらえると思う。

やはり藤子F作品は、陽と陰の二方面で読み解いていくべきなのだろう。

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さて、お話を少し見て行こう。

主人公は大学生だろうか。下宿先となるアパートの一室に学生服姿の男が入ってくる。通されたその部屋で、男は過去の記憶を思いおこす。子供の頃、昼寝をしていた時の夢、変なおじさんに手を引かれ、今いるこの部屋に連れてこられたのだった。

そこでは年齢の異なる男たち4人が言い争いをしていて、とても嫌な雰囲気だった。子供の自分は部屋の隅で泣いていたが、やがて元の部屋に戻ったという。

不思議なこともあるものだと部屋を掃除していると、急に話しかけている者がいる。「学生時代が懐かしくて」と突然姿を現わすサラリーマン風の男、「あんたは・・・」誰だと聞く前に、サラリーマン風の男は、

「誰かと聞くんだろ、わかってる。僕は君だ」

と言って、学生服の男を指差すのだった。

男は今から9年2か月後の君だと言う。信じられないが、このアパートの炊事場などに詳しく、どうやらタイムマシンでやってきたのだと理解する。ややこしいので、学生時代の男を①、サラリーマン風の男を②としたい。年齢は男①が18歳とすると、男②が27歳となる。

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ここで、タイムマシンについての説明が入る。

・タイムマシンは過去にしか戻れない。
・タイムマシンは男②が作った。
・そして作り方を②から①に教えることにする。自分のタイムマシンを見本にして。

少々ややこしいが、ここではタイムパラドックスの「存在の輪」が使われている。自分が持っているタイムマシンを見て、その作り方を過去の自分に教え、その自分が成長してタイムマシンを作って過去へと戻る。初めてタイムマシンを作ったのはだれかがわからないという、閉じた循環が成立している。藤子先生は、この「存在の輪」ネタが本当にお好きであるようだ。

ただ、ここで過去にしか戻れない、と説明している点は納得がいかない。なぜなら、この後、男①のさらなる過去に遡って、少年時代の男の子を連れてくるからだ。過去へ行って未来へと戻ってくるという動きをしているのである。なので、個人的にはこのセリフはF先生のミスではないかと想像されるのである。

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男②は男①に対して、まもなく人生を変える瞬間が訪れると予言する。不安を覚える男①に、なんと時価三億円の山林の相続人であると管財人が伝えにやってくる。いきなりの億万長者へと早変わりなのであった。

慌てふためく男①。余裕しゃくしゃくな男②は、その3億円を現金化させて自分に預けろと言い出す。納得のいかない男①は、「変な顔するな。僕はつまり君だ。君が9年後に3億円を受け取るわけだ」と説明する。それでもよく意味の分からない男①。

男②の言うことには、なぜこのようなことを言うのかというと、過去の失敗を取り戻したいのだという。

人生には無数の別れ道がある。その時々にどっちのコースを選ぶかで、あとの運命が変わってくる。

男②は若い時に3億円を手にして、魔物であるお金に狂わされたというのだ。分別のつくまで自分に預けろと迫るが、そこに「何が分別じゃ」と、別の男が現れる。髪の毛の若干薄くなった中年男、彼は男①の23年後の姿なのであった。ということは41歳、この男を③としよう。

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男③も「なるべく早い段階でコースを変えたい」と②と同じようなことを言う。男③の言い分は、なんと23年後には爆発的なインフレーションが起こり、3億円などは紙くず同然となってしまうのだという。なので、山林は売ってはいけない、というのが主張である。

それでは今のままの貧乏暮らしが続いてしまう。そう反論しようとしたところに、次なる男が姿を現わす。このすっかり禿げあがったおじさんは、男①の33年後の世界から来た51歳の男。男④としておこう。

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男④は言う。すぐ山林を売れと。その理由は一切の土地が国有化されてしまい、一文無しになってしまうからだという。山林を宝石に変えて、全部自分に預けろと主張する。過去の自分のことを全く信用していないのである。

男4人、18・27・41・51歳の自分が汚いアパートの一室に集結し、これまた汚い議論が始まる。誰もが自分に財産を預けろと主張する。27歳は生活を楽しむ権利、41歳は中年が人生の盛りであるべき、51歳は老後に楽しみは取っておくべき、と主張は全く噛み合わない。

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この不毛の議論を聞いていた18歳の男①は、自分同士の醜い争いは止めろと仲裁に入る。そこで山林を売るか売らないかで多数決を持ちかけるが、これが見事に2対2で真っ二つ。ちなみに売る派は27歳と51歳の自分。

結局「自分は他人のはじまり」。険悪な空気が室内を覆う。

そこで男①は提案する。もっと若い年代にも発言権があるはずだと。そしてすぐに、少年時代の男の子が連れてこられる。

この時、タイムマシンが一度過去に行って子供を連れて現在(未来)に戻ってきているので、タイムマシンは過去しか進めないという説明は破綻している。

男②③④は、少年に「曇りのない目で良く話を聞いて将来を判断をして欲しい」と告げ、再び議論を始めるが、これが全く収拾がつかず、その姿は醜悪そのもの。少年はその様子を見て震えあがる。

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男①は思い出す。これが僕が昔見た夢だと。でも、少し様子が違う。あの時とは別コースなのか・・・。

「あれが僕の将来の姿かと思うと、生きていくのが嫌になっちゃう」

そう思ったその瞬間。

少年は、ひらりと部屋の窓に飛び乗って・・二階から身投げをしてしまう。純粋な曇りのない少年の目には、自分のどの将来にも絶望しか思い浮かべられなくなったのである。

そして、少年が落ちていったその直後、アパートの一室がガランとする。喧々諤々だった男たち4人の姿は消えている。過去の自分が自殺し、未来人である自分たちの存在も失われてしまったのである。

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子供時代の自分が自殺をしてしまったので、その後の人生である男たちは居なかったことになってしまう、という非常にシニカルなラストシーンである。どれかの人生を選べと言われたものの、自分同士の醜悪な言い争いを目撃して、自死の道を選んでしまう。後味の悪さは半端ない物語である。

ほぼ似たテーマである「ドラえもん」の『ぼくを止めるのび太』では、お小遣いの使い道について、カップラーメンかラジコンかで、時間の異なる3人ののび太が口論して殴り合いを始めてしまい・・・という極めてそっくりの展開であった。しかしラストでは時空がこんがらがり、なぜかラーメンのプラモデルを作ることになる、というバカバカしい笑えるオチとなっていた。

同じテーマでも、子供向けと大人向けで、読後感も訴求ポイントも大きく変わってくる。さすがは媒体に対する描き分けのプロフェッショナル・藤子Fといったところだろう。


ところで、タイムパラドックスの観点からすると、本作のラストは実はパラドックスに満ちている。過去の自分が消えたので将来の自分も消える、と納得のいく終わり方なのだが、見方を変えると少し変なことが起こる。

これは「親殺しのパラドックス」と言われるタイムパラドックスと同じ現象なのである。

親を殺すと自分が消える。自分が消えたということは親を殺すはずの子供がいなくなったということで、殺された親は生き返る。親が存在するということは、子供も再び生き返り、再び親を殺しにやってくる・・・。そういう矛盾した循環である。

本作では、少年時代の自分を殺したのは大人になった自分である。子供が死んだので大人の存在は消える。しかし、子供を殺した大人がいなくなったということにもなるので、子供は死ななくて良いことになる。本作のラストでは、こうしたタイムパラドックスの輪に入り込んでしまっているのである。


本作は冒頭で「存在の輪」を描いて、ラストで「親殺しのパラドックス」を描く。二大タイムパラドックスを贅沢に両方採り入れている作品であると思う。

そしてメッセージ性も強い。「自分は他人のはじまり」だと作中で語られるが、少し年月が経った自分を信用できない。自分すら信用できなければ、他人にはもっと厳しい目が向けられるだろう。つまり、自分だろうと他人だろうと、「会議」での議論は全て自分本位で平行線のままだ。

藤子先生の冷笑的な物語の代表ともいえる作品でありつつ、タイムパラドックスの観点からも良く練られたお話となっていると思う。

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