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【Little Japan ECHIGOがある「二居」の歴史を調べてみました!】(近代~現代編)宿場町からスノーレジャーの町に!

前回の中世~近世編に引き続き、LIttle Japan ECHIGOがある二居と三国街道の歴史について紹介します。
江戸時代まで宿場町としての役割を担っていた二居は、近代以降、時代の大きな波の中で変革期が訪れます。そんな二居や三国街道がたどった歩みや、”夜明け前”の様子などを、当時の記録を交えて紹介していきます。

戊辰戦争で宿場が全焼

慶応3(1867)年10月に大政奉還が行われ、江戸幕府が滅亡します。
翌1月、京都で旧幕府軍と新政府軍が衝突。戊辰戦争が勃発します。戦火は東へと移っていき、3月には江戸城が新政府軍に無血開城されます。
現在の湯沢町を含む、当時の魚沼郡は、大部分が天領(幕府の直轄地)であったことに加え、旧幕府軍の主柱だった会津藩の領地もあり、幕府色が濃い地域でした。4月、上州側から北上してくる新政府軍を迎え撃つために、会津藩を中心とした旧幕府軍は、浅貝に前線基地を置き、三国峠の防御を固めます。湯沢地域の村々は、物資や食料の提供や運搬、戦闘への動員などを求められました。特に三俣、二居、浅貝では、会津藩兵や村々から動員された兵が宿泊することになりました。
両軍は三国峠で激突し、激戦の末に旧幕府軍は敗退。退却の際に旧幕府軍は追手の侵攻を遅らせるために、街道筋の浅貝宿と二居宿に火を放ちます。これによって二居宿は、神社や寺、蔵を数棟残したほかは、ことごとく焼失してしまいました。

山間の集落であった二居と浅貝は米がとれず、稼ぎの中心は宿場町としての物資の継ぎ立てや旅人の休宿泊が大半でした。そのため、宿設備の焼失は村にとって大きな打撃でした。復興を目指した両宿には、周辺の村落から見舞金がきたり、新政府からも手当が支給されたりしました。焼失した二居宿本陣の富澤家は、明治2(1868)年にもとの通りの間取で再建され、現代に至っています。

その後、戦線はさらに北上します。長岡市一帯では、長岡藩士の河合継之助の指揮のもとで長岡城に立て籠もった旧幕府軍と、黒田清隆・山形有朋らが率いた新政府軍とで激しい戦いが繰り広げられました。この、いわゆる北越戦争は、戊辰戦争の中でも特に激しい戦闘のひとつとして知られていて、司馬遼太郎の小説「峠」でも描かれ、2022年に役所広司主演で映画化もされました。

三国街道の通行量と宿場の街並み

ある記録では、三国街道を往来する人々は、安政4(1857)年の時点で2万人であったともいわれています。
前項の戊辰戦争の戦火が近づく頃、会津藩は三俣に八木沢口留番所を設け、不審者の取り締まりをしました。通行人に「改め手形」を発行しており、これによると慶応4(1868)年4月11日~20日の間で番所を通過した旅人の人数は280人だったそうです。
この人数には戦争に向けて動員された人員等は含まれておらず、戦闘が近づく時期でも旅人の行き来があったことがわかります。
その内訳を少し見てみると、長岡から関東を目指す男性3人と女性1人と子供2人という家族連れとみられる一行。上総から来た夫妻と子。一人旅の者もおり、長岡の街中に住む商人と思われる人。長岡近辺の農村に住んでいて、田植えが終わってからの出稼ぎで関東を目指したと思われる人。他にも、柏崎在の飛脚仲間の一行5人、小千谷の縮の運搬人の一行3人といった記録が残っています。

明治前半から中期の、二居の集落の家並みの記録を見てみると、街道をはさんで家屋が立ち並んでいたようです。集落のほぼ真ん中にあったのが、江戸時代までは本陣であり、その後は旅籠屋を営み、郵便局も兼ねていた富澤家でした。沿道には他にも旅籠屋が多くあり、飲食店や酒小売、牛馬売買、銃猟営業人、質営業などがありました。それ以外では、二居の家々のほとんどは一頭以上の牛馬を持っていて、運搬業を生業にしていたと見られます。

外国人が見た三国街道と二居

幕末に開国してからは多くの外国人が日本国内を旅して、目にしたものを記録に残しています。
イギリス外交官のアーネスト・サトウは外国人向け旅行ガイドブックを作るため、各地を旅していました。関東から新潟に旅した際、往路は清水峠を利用し二居や湯沢は通りませんでしたが、復路では三国峠を越えました。
明治13(1880)年6月12日、早朝に浦佐を発ち、お昼に湯沢に到着。粽(ちまき)に黄粉をつけたものを昼食として食べています。そこから登り坂になって三俣を過ぎ、その先の様子を言及しています。

「近隣の高みでは熊やかもしかの狩猟ができ、その毛皮が売りに出される」
「道は初め川の右岸を上昇し(中略)じくざぐの道を登って一時間で茶屋に着く」
「峠の頂上まで登り、ついで二居村に向かって急激に降下する」
「(二居村近隣では)少なからぬ木蓮がみられ、その多くが大ぶりである。6月になるとこれらが強烈な芳香を放つ」
「冬には二居村は雪に閉ざされるので、旅行者は靴底に”かんじき”と呼ばれる鉄の部品を取り付ける」
「山道は、ワラビや濃いアネモネに覆われた草深い湿地に沿ってのびる清津川渓谷の上流部を、緩やかに上昇する」
「岩山の多くのところから岩壁が絵のように突出していて、右手には苗場山の長い尾根が続いている」

などといった様に、二居から浅貝までの風俗や植生や地形などを、目に浮かぶような表現で述べています。

冬の三国峠越え

新潟県湯沢町といえばスキーが代名詞なほど雪深い地域です。道路やトンネルが整備された現在でも、雪の中での通行は大変ですが、かつてであればさらに大変でした。そんな冬でも、天気の良い日には商人などが峠を越えていたようで、通行の安全のために「お助け小屋」が、三国峠と浅貝の間や二居峠などに置かれていました。
実業家で古志郡郡長も務めた三島億二郎は、明治13(1880)年3月に、東京上野で花見をしたその帰り道に三国峠越えをしており、この地域の冬の様子を日記に残しています。
それによると、三国峠を越えようとすると、風雪が巻いて顔をうち、呼吸もつけず、前方もどこだかわからないような状態でどうにか5キロ程歩いて、初めて頂上に人の声が聴こえて生き返った思いがしたという有様だったようです。衣類はことごとく湿り、身に着けていた合羽は10kg以上の重さとなって、股引はびっちょりになったとしています。

鉄道開通による三国街道の衰退

明治時代に入ると新政府は、全国各地で交通網の整備を行いました。
新潟港の開発に合わせて関東と新潟を結ぶ道として、明治18(1885)年に清水峠を経由する馬車道が開削されました。この道は三国街道の東に位置しており、二居や湯沢を経由しません。この影響で物資や旅人の往来は衰えますが、この新道は開通したその年の冬には土砂崩れや雪の影響で通行ができなくなってしまいます。
それにより一時は通行量は盛り返したものの、明治26(1893)年に、東京から長野経由で日本海までを結ぶ鉄道路線・信越線が開通したことで、交通幹線としての役割を奪われてしまいます。そして昭和6(1931)年には関東と新潟を直接結ぶ上越線が開通したことがさらに追い打ちをかけ、三国峠越えの道は廃道同然になってしまいます。

上越を結ぶ道路の整備は、前述の通り明治初期に一度頓挫して、再び整備の検討がなされたのは昭和時代になってからでした。
昭和7(1932)年に中国大陸で満州国が建国されると、東京と日本海側を結ぶ道として、三国街道の整備が注目され、群馬県側・新潟県側の双方から、測量や整備などが行われます。昭和13年には浅貝まで自動車が通れる道が開通し、三国峠下を貫くトンネルについても計画が立てられますが、太平洋戦争により中止となります。

三国トンネルをはじめとした道路整備

戦後、敗戦の混乱がおさまってきた昭和27(1952)年。関東経済圏と北陸経済圏を最短で結ぶ道の必要性から三国街道は国道17号に指定され、改良計画が進んでいきます。新潟県出身の田中角栄が総選挙に初めて出馬した際、「三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばせば越後に雪は降らない」「その土を日本海に運べば佐渡と陸続きになる」という発言をしています。現代の感覚からすれば中々なトンデモ発言のように感じられますが、当時の閉ざされた雪国の中で生きることがいかに大変だったかを想像できるものでもあります。

昭和34(1959)年に総延長1218mの三国トンネルが開通。それまでの東京新潟間の道は、通る者はキコリか電話線ケーブルの工夫かハイカーくらいといわれており、自動車交通は長野を経由しなければいけなかったところが、大幅短縮となりました。
道幅や道路線形などについても相当の自動車交通量を見込んで設計され、雪崩防止柵やスノーシェッドなどの積雪対策も施されました。当時の新潟日報には「”第二の軽井沢”めざし」とか「脚光ふたたび三宿に」といった言葉が踊りました。

峠に挟まれた二居も同じ時期に道路の改良が行われました。それまでの道は、明治36(1903)年にできた清津川峡谷に沿う道で、山を廻り込むような谷道でした。「赤崩れ」「白崩れ」と呼ばれる崩落地もあり、落石や転落事故の危険が高い道でした。そこで昭和40(1965)年までに、二居トンネルをはじめとした5本のトンネルや二居大橋などが建設されました。道幅は広がり直線的で全面舗装となり、交通状況は劇的に改善されました。

スノーレジャーの街へ

東京からのアクセスが良くなったことで、湯沢町は絶好の観光地となります。三国トンネル開通の翌年には浅貝スキー場(現白樺平ゲレンデ)が開業。集落の裏山を切り開いた小さなスキー場でしたが多くの客が押し寄せ、「集落はじまって以来の賑わい」といわれたようです。さらにその翌年には苗場国際スキー場がオープンします。
二居でも周辺集落のそうした流れから、スキー場の誘致に向けて動き出し、昭和44(1969)年に、リフト2基とナイター設備を備えた町営の二居スキー場がオープンしました。開業当初は、苗場の混雑ぶりに嫌気がさした人が流れてきて大盛況だったそうで、最盛期には二居集落で30軒程の民宿があったようです。昭和58(1983)年にはかぐら田代スキー場がオープン。当時のスキーブームの影響もあり、スノーレジャーの街という地位を確立していきました。

おわりに

という訳で2回にわたって、二居と三国街道の歴史を紹介してきました。
二居に残っている富澤家本陣は、平成13年(2001)に湯沢町指定史跡に指定されました。Little Japan ECHIGOの前の旧三国街道を湯沢方面に向かって歩いていくと、Google Map上は道が途切れていて舗装された道も途切れているのですが、道自体は続いています。現在は「中部北陸自然歩道」という名のハイキングコースのような道になっていますが、かつてはここが三国街道でした。ここから旧道をたどって二居峠や三俣まで歩くことも可能です。
また湯沢温泉といえば、川端康成の「雪国」の舞台でもあります。
今回紹介しきれなかった歴史が、湯沢町にも二居にもまだたくさんあります。地域をめぐりながら、ぜひ昔の人々の足跡を探してみてください!

《参考文献》

・アーネスト・サトウ著 庄田元男訳『明治日本旅行案内〈中巻〉ルート編Ⅰ』平凡社(1996)
・湯沢町史編さん室編『湯沢町史 通史編 上巻』湯沢町教育委員会(2005)
・阿部公一『上越国境を越える道 : 清水峠・三国峠を越えた道から関越自動車道まで』ネクスコ・エンジニアリング東北(2016)


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