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【Little Japan ECHIGOがある「二居」の歴史を調べてみました!】(中世~近世編)三国街道の宿場町だった二居。どんな人々が通っていた?

Little Japan ECHIGOがある二居、そして新潟県湯沢町と言えば、スノーレジャーのイメージが強い地域です。しかし少し時代を遡れば、三国街道という関東と新潟を結ぶ道が通る地域でした。かつての三国街道、現在の国道17号を通っていると、ところどころにそうした面影をみることができます。
二居もその宿場町でした。Little Japan ECHIGOが面する旧三国街道を歩いてすぐのところには富澤本陣という、身分の高い人物が泊まった建物がかつての姿のままで残っていたり、集落の外れには昔の峠道があったりします。
今回は、残された記録などから、二居の宿場町の歴史や街の変遷、三国街道にはどのような交通があったのかなどを色々と調べてみました。

「ふたい」の初出は室町時代

三国街道の通行の記録を遡っていくと、15世紀中頃の書物にいくつか確認ができます。そのうちのひとつに、万里集九という僧が著した「梅花無尽蔵」という書物があります。集九は、京の相国寺の僧でしたが、応仁の乱を避けて各地を転々とした後に美濃国鵜沼(岐阜県各務原市)に自らの拠点を設けたのちに江戸に赴きます。しばし江戸に滞在した後、再び鵜沼へ戻る際に、直線的なルートの東海道ではなく、三国峠を越えて越後(新潟県)に出て、北陸道を経て飛騨・美濃というルートを辿りました。

彼が江戸を出発したのが長享2(1488)年8月14日で、鵜沼に到着したのが延徳元(1489)年5月12日だったので、実に10か月近くも旅をしていたことになります。10月2日の項にこのような記録があります。

北陸第一之嶮、此夕宿二井

三国峠付近が北陸で一番険しい場所であること。そしてこの日は二井(二居)に泊まったということが記されています。これだけの記述ではありますが、この時代に既に、二居という場所に人が住んでいて、人を泊めるだけの受け入れ態勢が少なからずあったということになります。

ちなみに余談ですが、歩きとはいえ江戸から二居まで1ヶ月半程かかっているのは、かなりゆっくりなペースです(後述しますが、江戸時代の幕府の役人は9日で二居まで至っています)。集九は漢詩漢文に長けた人物だったので、各地で文化人としてもてなしを受けながら旅をしたものと思われます。

軍用道路としての三国街道

越後国を支配していた上杉謙信は、永禄3(1560)年から天正2(1574)年まで、ほぼ毎年のように関東出兵を行っていて、その際は主に三国街道を利用したものと考えられています。浅貝(現在の苗場スキー場付近)にはその軍事拠点として築かれたであろう、浅貝寄居城という城跡が残っています。
出兵の多くは秋・冬に出て春に帰国しており、農閑期が出兵時期と重なります。これは、当時の兵隊が普段は農民である場合が多かったことから、農業に忙しい時期には戦に出られなかったことが要因としてあります。また、冬場になると農村には働き口が無くなることから、「口減らし」の手段として遠征をしていたという見方もあるようです。

二居宿が幕府公認の宿場町に

江戸時代になると、幕府が主導して各地に街道が整備されます。東海道や中山道をはじめとした五街道は有名ですが、そうした街道整備の一環として、慶長10(1605)年頃に三国街道が整備されます。中山道高崎宿から分岐して、越後国寺泊(長岡市)まで至る道として設定されます。
その後、宿場町が設定されます。上野国側には12、越後国側には18の宿場が設けられました。この時に「山中三宿」と呼ばれる浅貝・二居・三俣が、幕府に宿場町として指定されることになりました。
各々の宿は、参勤交代などといった公用通行者のために、25人と馬25疋を備えておくことが命じられました。Little Japan ECHIGOのすぐ近くの富澤家本陣も、江戸時代初期から代々、宿場業務の中心を担っていました。
こうした経過をみると、前項で描いたように、越後と関東を結ぶ道は中世、いやそれ以前からありましたが、それが「三国街道」として道筋が定められたのは江戸時代になってからでした。そして、二居が宿場町として公的に定められたのは江戸時代に入ってからですが、道行く旅人を泊めたりもてなしたりといったことは、それ以前から行われていたと思われます。

集落の規模については、宝暦5(1755)年の記録で以下となっています。

・二居   46軒:188人(家数:人数)
・三俣   98軒:448人
・浅貝   67軒:357人
・湯沢 184軒:822人

山中三宿の中でも二居は規模の小さい宿場だったことがわかります。江戸時代初期に書かれた絵図を見ると、二居宿の前後には、浅貝側に火打峠、三俣側に二居峠というように、峠にはさまれていることがわかります。難所にはさまれた二居は、旅人が一息つく場所だったのかもしれません。

三国街道を通った幕府関係者

江戸時代初期、三国街道が重視された要因の一つとして、佐渡の金山がありました。幕府は佐渡奉行という役職を設けて金山の経営を行いました。三国街道は、佐渡奉行が任地である佐渡に赴くための道でもあり、佐渡街道とも呼ばれていたようです。
また、江戸時代の街道というと参勤交代や大名行列という印象が強いのではないかと思います。参勤交代では、それぞれの藩に対して、領国から江戸へ向かうルートが決められていました。越後には11の藩がありましたが、その中で三国街道を通る指定を受けていたのは長岡藩と、現在の五泉市に拠点があった村松藩だけでした。他の藩は会津や信州をまわって江戸に向かうルートが指定されていました。

湯治に行く人々

江戸時代中期以降になって社会情勢が安定して経済的に豊かになると、庶民の間でも湯治や寺社参詣などで旅に出る人が増えていきます。弥次喜多の珍道中を描いた東海道中膝栗毛が出版されたり、温泉番付が作成されて各地の温泉が紹介されたりといったことからも、当時の庶民の旅への関心の高さがわかります。
三国街道においては、越後方面から三国街道を越えて草津温泉に向う旅人が一定数いたようです。草津温泉は先にあげた温泉番付の東の番付で大関、つまり最高位となっていて、江戸近郊の各地からも湯治に訪れていた人がいたようです。
三国峠の南に猿ヶ京関所があり、三国街道を通行する人を取り締まっていたのですが、当時の関所役人だった旧家に関所手形が保存されています。手形に記された通行者の居住地をみていくと、二居からも確認できる他、十日町や塩沢など、越後の様々な地域が確認でき、村松藩の関係者も見え、庶民や武家といった様々な身分の人たちが三国街道を通って草津に湯治に向かったことがわかります。

寺社参詣に行く人々

寺社詣については注目したい文書が一通あります。
文化14(1817)年に二居村に住む女性4人が信濃国の善光寺に参詣する際に、猿ヶ京関所に提出された通行手形です。

一 女四人越後国二居宿より私親類之者、信州善光寺江仏参仕度奉存ニ依テ、御関所御通被遊可被下候、若此女共ニ付故障之出来候ハバ何方迄も罷出申披可仕候、為後証一札仍而如件

 文化十四年丑三月六日
    吹路村 年寄 升右衛門
  猿ヶ京御関所 御番人衆中様

「越後国二居宿より私の親類の者4人が、信州善光寺に参詣に行くにあたって、関所を通して頂きたく思います。もし彼女らに何か問題がありましたら、何事についても私が対応致します」というのが文書の大意です。

この文書から読み取れる興味深い点のひとつは、記したのが吹路村(群馬県みなかみ町)の人物であるということです。三国峠をはさんだ南北で通婚をはじめとした交流が行われていたことがわかります。
もうひとつは、女性のみの旅だということです。三国街道を通る女性のみの旅の記録は、二居の隣の浅貝のものなど、いくつか残っていて、それほど珍しいものではなかったようです。女性だけで旅をしても問題ない程度に、街道の治安は安定していたということになります。

幕府役人による三国街道の旅の記録

三国街道の旅の様子を、川路聖謨(かわじとしあきら)という幕府の役人の記録から見ていきます。九州の代官所の役人の息子として生まれた川路は、江戸に出て様々な幕府の要職を歴任します。そのうちのひとつが佐渡奉行でした。
天保11(1840)年に佐渡奉行に任じられた川路は、7月11日に江戸を出発します。一行の具体的な人数についての記載はありませんが、槍や長刀や鉄砲を持つ者を共に連れて、大名並みの規模だったようです。途中、大雨による川の増水により渋川宿(群馬県渋川市)で2日程足止めされ、川が増水して渡れないため回り道もして、7月18日に上州側の最後の宿場町である永井宿に投宿します。
翌7月19日は7時に出発。盆を傾けたような雨が降る中で三国峠を越え、越後側の最初の宿場町の浅貝宿で小休止した時の印象を、「永井と浅貝、四里(約16㎞)程しか離れてないのに風俗が大きく変わった」「田などはさらに少なく、わらびなどが多くある」と記しています。そこから二居峠を越えて、この日の宿は三俣宿。峠越えの山道を約33km歩いたことになります。

この日の夕食は、

・汁  くじら なす 豆腐
・平椀 ぜんまい いんげん 鱠(なます) 大根おろし 名も知らぬ塩肴一切れ きざみするめ三筋程ずつ
・取肴 名はしらず、田づくりに似たるもの十ばかり

だったようです。山間の宿場で幕府の役人に提供された、いわばこの地の最高級の食事がこの様なものだったということです。これに対して川路がどう感じたのかは書かれていませんが、道中の献立については日によって書かれたり書かれなかったりという具合なので、こうして事細かに食事を記録したという事は、印象に残ったものだったのかもしれません。
ちなみに「くじら」については文字通り鯨なのか、もしくは岡くじらと呼ばれていた猪と考えることもできるようです。

川路は翌日、湯沢宿(越後湯沢駅付近)の茶店において、大きな台の上に白雪(氷?)が高く積まれて売っているのを見て、「江戸であれば珍しい物だ」としています。この日は六日町宿に投宿、夕食に生鮭を食べたようです。その後寺泊から船で佐渡に渡り、7月24日に奉行所のある相川に到着しました。

近代~現代編に続く)

《参考文献》

・五十嵐富夫『三国峠を越えた旅人たち』氷川書房(1983)
・川路聖謨著 川田貞夫訳『島根のすさみー佐渡奉行在勤日記』東洋文庫(1973)
・湯沢町史編さん室編『湯沢町史 通史編 上巻』湯沢町教育委員会(2005)
・阿部公一『上越国境を越える道 : 清水峠・三国峠を越えた道から関越自動車道まで』ネクスコ・エンジニアリング東北(2016)


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