自分で捌いた鹿を作品にした話。
8月11日、初めて自分で鹿を一頭捌いた。
自分で鹿の後頭部を殴打して仮死状態にして作業場で血抜きをする。
教えてもらいながらではあるものの、自分には今までの人生でなかった命をいただくことについての強烈な体験だった。
というのは2023年7月、秩父の狩猟体験施設に取材の仕事で訪れた際に、解体の経験をさせていただいた。あくまで"体験"だったため、皮は剥がれて熟成済みの鹿肉を使ったレクチャーだった。
しかし、話を伺えば伺うほど、食物連鎖の中に自分が生きていることはわかるものの、その実感の無さを恥ずかしく感じたのだ。
そして、同時に秩父のレクチャーで解体した鹿に対して、上手く言語化できないが、何か大変「失礼」なことをしているように感じた。
その後、和歌山の友人に連絡を取り、鹿狩猟を経験させて欲しいとお願いした。
自分がなんで申し訳ない気持ちがいっぱいなのか知りたかった。
実際、いざ檻で鹿と対面すると、生の対する貪欲さに圧倒された。
僕は目の前の鹿に生き抜く力にひるんでしまい、生態系の理だと割り切って殴打用のバットを握った。
しかし、即死させない程度に脳震盪を起こさせるという加減が非常に難しい。
躊躇して中々仕留められない。バットが空振る度、自分の捕食者としての能力のなさに申し訳ない気持ちが募っていく。
自分が歩んできた人生は暴力性の高い鈍器を持ち慣れない人生なのだと実感する。振り返れば喧嘩等をしたことがない半生も恨めしい。
対面した雌鹿は幼かった。
正直辛いものがある。
しかし、命のやり取りの土俵に上がったからには引き返せない。
自分は鹿を絞めれなかったら、生涯、肉食を諦める覚悟で命をいただくつもりだったし、すんなりとはいかなかったが結果的には急所を殴打することができてしまった。
僕はこの時点では作品にしようとは全く思っていなかったし、恐れ多いと思っていたが、この命は大切に噛み締めようと神様に誓った。
手足を縛った鹿を車に乗せ、15分ほど移動した解体場へ持っていく。
今回、2頭手に入ったので、申し訳ないが一つのカゴに無理やり詰め込む。
輸送中に後部座席から力強い息の深い呼吸音が聞こえてくる。
大人の個体だと輸送中にストレスで死んでしまうことも多いのだそう。
たまたま、僕はダンスをやっている人間だから鹿の解体作業を進めていくと、自分の身体の運動機能と目の前の肉の部位のイメージが交差していく。
実際に目の前にみる、筋膜やリンパ節にはやっぱり感動したし、自分の身体もこうなっているのかと思うと自分の身体のことも大切にしようと思えた。
丁寧に命をいただく上で可食部をさばいて、食事として自分の血肉にしていくことは比較的実践しやすい。肺、心臓なども後日、美味しくいただけた。
でも骨と皮はどうしても利用が難しい。
馬頭琴や太鼓のような楽器を作る技術が自分にはない。
大切にいただくと誓った以上、それは駄目だと思った。皮も骨にも余すことなく感謝させていただきたい。
そんな気持ちを消化するにはやっぱり舞踊にしようという考えに至った。
さっき「作品にしようとは全く思ってなかった」と記述してしまったが、今回の作品は神楽坂セッションハウス( https://session-house.net ) の企画にエントリーする際に、上演する作品のコンセプトは提出してあって宮沢賢治の「なめとこ山の熊」をモチーフに作品を創作する予定ではあった。
しかし、すぐに「なめとこ山の熊」を題材にするのは取りやめた。
自分の経験の中に、熊を撃ち殺すということは叶わないと思ったし、わざわざ作品のために熊の命をいただく理由がなかったからだ。
僕は埼玉で肉の解体をさせていただいて、それがたまたま鹿だったから、鹿と出会いたいと思った。
時系列を整理すると、7月の秩父での狩猟体験で、狩猟ににわかな興味でその内容を記述して提出したが、実際の解体を通して非常に浅はかな行為だったと、反省した。
尊敬するアーティストののばなしコンさん( https://www.consaitoh.com )に狩猟の手解きをいただきながら作品の話をする機会が多かったのも大きい。
コンさんと話していて気づいたのは、自分は今までの創作の中で、戯曲や音楽、あるいは文化を引用する形で作品に使わせてもらっていたけど、引用ではなく、無意識に盗用を行ってしまっていたんじゃないかという考えを話した。
あるテーマを「素敵に魅せる」ことは、実は暴力性が含まれていて、意図せずに表裏や、明暗のようなグラデーションを生み出しているんじゃないかと。
無闇に誰かの物語を消費することはリスペクトと丁寧な行動がないと命やその文化に大変失礼にあたるのだと猛省した。
この世にはいろんな考えの方がいて、それぞれに正しさを持っている。
付き合っていたヴィーガンの恋人とも大喧嘩をした。(その後、お別れをすることになる。)
鹿を獲って採肉をする経験を通した作品を作りたいと話すと激昂する動物保護の方もいらっしゃるだろう。
鹿の解体の後、約一ヶ月間はずっと夢に鹿が出てきた。
血抜きをしてからゆっくりと死に向かっていく鹿の瞳と心臓を鳴らす深い呼吸がずっと脳裏に焼き付いている。
鹿の呪いだと言われればその通りなのだが、自分が殺めた以上、向き合わないと進めなかった。
鹿は地域のよっては有害鳥獣駆除の対象になっていて、国や県、役場からの依頼で報酬を受ける。
一昨年の有害鳥獣による農業被害は約155億円。
一方で、駆除に反対するひとの気持ちもとてもわかる。
調べれば調べるほど、自分はどういう立場で世の中と接すればいいのかわからなくなった。
それでも鹿を捌いてわかったことはある。
それは現代社会は非常にシステマチックで、無関心に生きることができるということ。
僕が捌いた鹿肉と、スーパーに陳列されている、牛肉・豚肉・鶏肉になんの違いがあるのか未だにわからない。
命の優劣があるとは思わない。
けど、優劣をつけないと気持ちの整理ができない。
今回、コンテンポラリーダンスのイベントで作品を発表するのでちょっとだけ表現の世界と自分の立ち位置みたいなことにも触れておく。
僕はコンテンポラリーダンスのような先端の芸術は、社会の豊かさの余剰分を養分に成長してきたカルチャーだと思っていて(文化予算が増えれば芸術市場が賑わう的な話。娯楽や文化に使うお金は経済が潤ったほうがみんな劇場や美術館行くよね的な。)、この数年の不景気による文化予算の減少はいわば「土壌の貧困」と捉えている。
そんな貧しい土から良い作品が生まれるのか僕には疑問で、僕には椅子取りゲームがかなり激化したように思えてる。
ずっと椅子取りゲームのポジションを奪い合うことに参加させられてる感覚があってここ数年、ずっと嫌だなぁと思っていた。
どうにかお金に縛られない資本主義的な社会に乗っからないで済む生活を探している。
上手く言えないけど、ショーアップされているようなダンスを練習しないで、身体に向き合うことで成立するダンス作品を作りたいと思っていた。
だから今はお金的な余裕というよりは、実生活で循環できるサイクルに近づきたく、今は少しでも生態系の仲間に入りたいなと考えている。
ありがたいことに今年はさいたま芸術劇場(https://www.saf.or.jp/arthall/)の仕事で埼玉のさまざまな地域でいろんな職種の方のお話をお伺いする機会をいただいている。
先日はブルーベリー農家の方に苗もいただいてじっくり育てている。
育て方を調べて実行することで微力ながら生態系に近づいていたいと都市部にいながらできることを模索している。
今は加えてベランダでハーブも育てることと近所の農園にボランティアでお手伝いさせていただくことしか生態系に関与できてないけど、養蜂とかも今後できたらいいなと思ってる。
自分は芸術家としてそういうことでもしない限り、社会(というか地球)に関われないんじゃないかと思っている。
生態系に関与したいと考えてから、ダンス(身体)に関しても考え方が変わってきた。
動物の観察しているとみんな非常に脱力が上手で、リラックス状態を真似していたら僕の身体がここ数ヶ月どんどん柔らかくなってきた。
動物は呼吸が丁寧で、真似してみると、嘘みたいに自然と近寄ってくれるのだ。
これは動植物、虫に至るまで例外なく、穏やかに呼吸を行うと生き物は攻撃性がなくなる。
そして鎮静した身体は、空間を共有するものに伝染していくというのがわかってきた。
そうして身体の「自然体でいることの重要性」と地続きの経験を作品にしようと考えて、タイトルは決まった。
「鹿は神の使いと言われているらしい。It seems that deer are "incarnation of God".」。
構造としては自分の食に興味がない都市部の若いカップルと、鹿と常人を2層構造で照らし、交差することで、社会構造のズレと、自他の境界にまで触れる作品を目指した。
作品の構想を詰めていく中、どうしても鹿を演じてくれるダンサーが必要だと結論付いた。
真っ先にイメージにしたのが雷はつ菜さん。彼女は多摩美術大学の僕の授業を受けてくれている生徒さん。
彼女は天性の身体の柔らかさを持っていて、前述した自然体でいることの重要性を体現している人だった。
彼女は非常に感覚が豊かな人で人間社会に住んでいながら動物のような生活のリズムがあり、今回の作品は彼女じゃないと成立しなかったように思う。
本人にもお伝えしたが、自分の体験の延長線上に作品創作を添えたので、上演を実現できること自体、自分にとって感謝すべきことであった。
そして、稽古を重ねていく中で自分の中で明確化した気持ちは、結局のところ「鹿に許して欲しい」という気持ちが大きかったということがわかった。
最後になるが、都市部で生活していると"命を大切にしているか"って自問ができない。
生物の命と向き合うことでやっと自分は捕食者として生きているという自認ができる。
いままでの人生ではその無自覚・無責任さが自分で嫌だった。
僕はもうペットは飼えないと思う。
食物連鎖の中で、自分は世界の一員だと自覚を持ったから。
実際、全ての生き物を捕食対象として見ているわけではないので、愛玩動物としての関係は築けないけど、友達にはなれるとは思う。
ただ改めて、捕食を行う命のやり取りに関しては、人間は真剣に向き合わなくてはいけない。
山での捕食は目の前にいる生き物と自分だけの世界。
神様しかその事実を知らない。
U35 シアター21フェスは、オンライン配信販売を行なっています。視聴期限は2023年11月25日(土)23:59まで可能です。
視聴ページ https://session-house.zaiko.io/item/359736
また2023年11月22日(水)20:00-から Zoom感想会を行います。
もしよければご参加いただければ幸いです。
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