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圧縮された永遠~『大竹伸朗展』@東京国立近代美術館

東京国立近代美術館で開催中の『大竹伸朗展』で観ることができるこのアート作品。「モンシェリー:スクラップ小屋としての自画像」と名づけられている。廃材をはじめ、チラシやポスターなど様々な既製品を集めて作られた建物だが、これが自画像なのだという。少なくともよく知られた有名な”自画像“とはかなり違うように思う。なぜならどう見ても建物だからだ。

心動かされたものを意識的に好きなだけコレクトしたようにも見えるし、雑然と集められた無意識の集積のようにも見えるこの禍々しい塊。これが”自画像“と名づけられることで、否応なしに大竹伸朗というアーティストの輪郭を実感させられる。彼が好んだあらゆるモノが結集し、彼そのものの肖像を形づくっているということなのか。意識も無意識も関係なく情報がひしめきあっている様こそが、人間の心そのものを示唆しているということなのか。

中を覗くと巨大なスクラップブックが展示してあるのが見える。
レコードやビデオなども散りばめてある。


現代美術家・大竹伸朗。1980年代初頭より、絵画、音、写真、映像を縦断する立体作品を多く発表。代表的なアプローチとして収集したものを無数に貼り合わせ組み替えていくコラージュがあり、ライフワークとして毎日作り続けられているスクラップブックを含めると作品数は膨大。「大竹伸朗展」ではあらゆる時代から選出した500もの作品を7テーマを軸に展示してある。


「自/他」「記憶」「時間」「移行」「夢/網膜」「層」「音」という7つのテーマが設けられたこの展示会。それぞれのテーマが関係し合いながら、エネルギーが増幅していくような異様な空間の中、各作品ごとの鮮烈な衝撃を浴びることができる。またじっと見つめながら作品に辿り着くまでの手つきを思い浮かべることで本能的に心が湧いてくる。しかし同時に、肌を這ってくる奇妙な不穏さもあるように思えた。この未詳な心地の正体は何なのか。

「ダブ平&ニューシャネル」という作品。ライブステージを模されていて、作品の向かい側にはPA卓もある。
「網膜台(アンブルサイド)」という作品。目をこらすとセピア 色になった写真が貼り巡らせてあるのが分かる。


ノスタルジーが襲いかかる

フィルムカメラの質感やレトロなフォントなど広告や商品に散見されるノスタルジー。知らないけど懐かしいあの感じ、とは今や"エモい"といった形容詞にも回収されるポジティブなイメージを持つが、よくよく考えると"知らないけど懐かしい"というのは未知なものに触れた時に覚える感情としては歪で違和感がある。ノスタルジーとは本来、不思議な作用を無意識下にもたらしていくものなのかもしれない。古い映像を不気味に思う気持ちに漬け込む良質なホラーコンテンツ(「このテープ持ってないですか?」「フェイクドキュメンタリーQ」etc…)が生まれ続けているのもそういう理由かもしれない。

大竹伸朗の作品には昔のテレビ番組や映画のキャラクター、果てはスナックの扉をそのまま持ってきたものまで、様々なモチーフがある。リアルタイムで体験したわけでも、その店に馴染みがあるわけでもないが妙に懐かしい気持ちになる。言うなればノスタルジックではあるのだが、同時に妙に居心地の悪い気分にもなる。巨大なキャンバスに手描きされていたり、スクラップの一部分になることで、なんとなく懐かしいだけだったはずの感覚がぐにゃりと歪められて、無意識下に違和感が滑り込む。どこか不気味なのだ。

「日本景 / 東京 Ⅱ」にはキカイダーらしき絵が。
ウルトラマンエースがスクラップの中に。
スナックのドアをそのまま持ってきた「ニューシャネル」。


巨大なコラージュ作品にしてもそうだ。作品を形づくる使い古されたモノたち、色褪せた写真、どこからか持ってこられた廃品にじっと目を向けると見知らぬノスタルジーが薫ってくる。しかし原形も分からないほどに断片化されたそれらを塊として観た時、強い奇妙さをもってこちらへ迫ってくる。その見心地は朽ちた廃墟を観る時に覚える胸のざわめきによく似ている。景色たちが元に戻れないまま時間を失ったあの侘しさ。懐かしさとともに、どこか不安な気持ちに襲われてしまうのが大竹作品の放つノスタルジーだ。

「家系図」という作品。これが家系図なのだとしたら怖すぎる。なぜか焼け焦げているようにも見えるし、どこか信仰対象のようなムードもある。


そこに留める

町や家、土地や空間の残骸がこうして人の手によって凝集されている作品を見ていると、大竹の心の奥底に沈殿している世界を覗いているような気分になってくる。大竹の心を通し、失われた時間や景色を眺めている、というべきか。この世界が蓄積してきた膨大な記憶を再構築し、新たに強烈な印象を残す景色を生み出すその手さばき。過ぎ去っていくものを繋ぎ止めるようにして、執念深く生み出されていくその作品の背景を想像するにつれて、次第に不気味さや不穏さを超えて、とても愛おしい気持ちもこみあげてくる。

展示の中には一般的に見える風景画や写真もあった。自らの目で見た光景を記録しておくこと。そして過去になりゆくそれらを断片に変えて大きな作品を作ること。その手法は全てが直列で繋がっていて、朽ちていくことに抗っているようにも思えた。作品になることはつまり永遠になるということだ。このまま朽ちていく廃墟たちとは違い、保存されれば時間に晒されることなくこの世界に留まることになる。大竹作品の圧倒的な存在感は、消えさっていくはずだった世界が密度高く束ねられているからこそ生まれるのだろう。

「網膜 ( 茶の前の落下 )」。チリチリと瞬く光を見ている時のような、靄がかかって見えない世界のような。
「網膜 (ワイヤー・ホライズン、タンジェ)」。夥しい数の知らない景色たち。


圧縮された永遠とも呼ぶべき大竹作品。ノスタルジーの奥底に鬼気迫るほどの"無限"への憧憬が滲んでいるのがとても興味深かった。僕たちが普段ただ消費しているだけのモノや音、撮っただけで見返さないご飯や景色の写真の中にも”この世界に残りたがっている意志”が刻まれているかもしれない。そんなことを思うと、日常がよりビビッドに見える気がするのだ。とてつもなくエネルギッシュで、そしてロマンチック。圧倒的な鑑賞体験だった。


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