見出し画像

「複数愛」という難題と25年間向き合い続けた私が学んだこと。

突然ですが、私には
「AくんもBくんもCくんも同時に好きになっちゃう! どの人が一番なんて選べない!」
という悩みが、13~14歳からありました。

そしてそれを「複数愛」というものとして自分が受け入れられるようになるまでに、実に20年以上かかりました。

そんな自分は社会の中でどう折り合いを付けて生きていけばいいのか。
試行錯誤を繰り返してきた結果、今ようやく、ひとつの到達点に来たような気がします。

ここまでの道のりは長かったですが、この経験が、同じように自分の在り方に悩んでいる人のヒントになることを願っています。


"フツウ"じゃない自分を受け入れられなかった

冒頭に書いたように、複数の人を同時に好きになってしまう、という自分の性質を自覚すると同時に、私は常に恋愛の悩みに煩わされていました。

そんな中、歴代の恋人達には本当に苦労をかけてしまったなぁと思います。なにせ、彼らとの関係自体が、既に彼氏がいるにも関わらずダダもれの好意を示してくる私のアプローチ から始まっているので、
彼らからすれば、「さえこは俺にしたことと同じようなことを他の男にもしそうな女」という先入観があるわけです。(そしてそれは正しい)

いつフラッと他の男へなびいて俺の元を去ってしまうのかと、常に不安と疑惑だらけの状態だったはず。

男のいる飲み会には参加しないで!
帰宅したら必ずメールして!
毎晩○時に電話して!
男友達禁止!女友達増やして!

などなど、数々の強制もされたし、 些細なことで 「お前、あの男と何かやましい事あるだろ!」 なんて疑われて大喧嘩にもなりました。

当時の私は、それはもう恋人からの束縛が辛かったんだけど、一方で束縛されるのもやむを得ない・フラフラ気の多い私の頭がおかしいとも思っていました。

だって、同時に何人も好きになる私が"フツウ"じゃないわけじゃん?
恋人は、そんな私を "フツウの人間"に治そうとしてくれてるだけじゃん?

だから私は、私を"正しい"道へ導こうとしてくれている恋人たちの期待に応えたかったんです。
"フツウ"に一人の人だけを好きになる"フツウの恋愛"ができる人間になりたくて、 自分の本心を押さえつけて。

でも、
どーーーしても、
どーーーーーーしても、
他の人も好きになってしまうんですよね。


私にとっての愛

私には、「単一愛」という概念が全く理解できませんでした。

家族や友達は何人いてもおかしくないよね?
子供が3人いる人に、「長男も次男も三男もみんな愛してるなんて、なんて不誠実な親なんだ!」なんて咎めないよね?

どうして恋愛感情だけは、複数の相手に持つのはおかしいって言われるんだろう?

私にとっては、家族愛も友愛も異性愛もほぼ同じ。
相手を深く知り、自分を深く知ってもらい、可能な限り心の距離を近づけ、できれば互いの境界を溶かし合いたい。
それが私が求める「愛」の形です。

でもそんなこと人に説明しても
「は?浮気したい人の屁理屈でしょ?」
って言われます。
むしろ自分自身が「結局私は好き勝手に遊びたいだけなんじゃないの?」って自分を疑っていました。

とどのつまり、私は社会不適合者なんだな。
「ひとりの人だけを愛する」という、誰でも当たり前にできていることが私にはできない。
私みたいなダメ人間が「本当の愛」を手に入れるなんて夢のまた夢なんだろうな。

そんな投げやりな気持ちになっては投げやりな行動に出て、そしてまた自己嫌悪に陥っての繰り返しでした。


実は、

恋人ただひとりを愛する一対一の恋愛
に対しての、
同時に複数の人を愛する一対多(または多対多)の恋愛

という価値観が 「浮気性」や「恋愛依存症」とは全く別の、数ある恋愛志向の中のひとつに過ぎないということを、今の私は知っています。
(「ポリアモリー」と言います。詳しくは調べてみてください)

けれど当時は自分が異常だと思っていたから、「普通になりたい」「治したい」 と必死でした。
治す治さないの次元の話ではないんだけど。

歴代の恋人たちにも
一人の人だけを愛するのが正常。
一人の人を愛せないのは異常。
でも本当の愛を知れば全て解決するよ!

と言われ、一生懸命その言葉を信じて行動し、でも一向に変われない。

結局どうあがいても「理想の自分(=一人の人だけを一途に愛するわたし)」になれない事実はそこにあり、好むと好まざるとに関わらず自分の性質を受け入れるしかないんだ、ということに薄々気づいていました。

けれどもそうやすやすと受け入れるわけにはいかなかった。
「複数の人を好きになってもいい」 なんて言ってる人は周りに一人もいなかったし、ましてや女性である私がそんな"アバズレ発言"したら世間からどう思われる?

自分の性質を受け入れたら社会的に死んでしまう。
ならばもう一生この業を背負って自分にも周囲にも嘘をつきながら生きるしかない。

そのくらい思い詰め、もはや諦めモードの頃に、遂に私は後の夫と出会いました。

ありのままを受け入れてもらうということ

彼は、私に恋人がいると知っても、私から離れるでもなく、恋人と別れさせようとするでもなく、ほぼ意に介していない様子でした。

そんな彼の態度を、
「お互い責任を負わない都合のいい関係でいたいのかな」
と私は解釈しました。

それでも当然、恋人に対しては良心の呵責が生まれます。
今までの私なら、恋人と別れてサッと新しい男の元へ飛び移っていたんですが、さすがにそんな自分にも嫌気が差していて、恋人とも彼とも、両方との関係を断つことを決意しました。

恋人には正直に好きな人ができたと伝えました。
恋人はとても怒ったし、絶望したし、苦しんでいました。真実を伝えずに別れるべきだったのかもしれないけど、当時の自分は「露悪的でなければならない」くらいに思っていて、そうするしかできなかった。自分勝手だけど。

彼(夫)にも正直に「こういう訳なので、恋人とも別れるけどあなたとももう今後は会えないです」と説明しました。
するとあっさり納得されました。

あれ…?
これまでの男はみーんな「だったら俺のところに来いよ! 俺はお前のことを本気で愛してるぜ! 俺と一緒ならお前は生まれ変われるさ!」って感じだったのに、この人は随分ドライだな…?

でもそりゃそうだよね。所詮セフレだもんね。

けれど数ヶ月後、結局彼(夫)のことを忘れられず再び連絡を取るようになりました。
彼と過ごす時間には不思議なほど居心地の良さがあったんですよ。
ズブズブの沼にハマり込む関係こそが本物の愛!と思い込んでいた私にとって、彼のスーパードライな態度は愛とは対極のようなものだったのに、なぜかしっくりくるものがありました。

それはつまるところ、
私を否定しない
・私を変えようとしない
・そのままの私を受け止めてくれる

という彼のニュートラルな接し方にあったのでした。

自分の「複数愛」という性質については当時まだ明確に自覚がなかったのでちゃんと彼には伝えられなかったのですが、
「あなたのことは好きだけど付き合う自信が持てない」とか何とかゴニョゴニョ言い訳する私に、何ら行動を強制することなく、「浮気症」とラベリングして軽蔑することもなく、私という人間そのものに興味を持ち、 私のことを好きだと言ってくれました。

自分を否定されないってこんなに幸せなことなんだ。
相手の要求に従うことに神経をすり減らされなければ、心はこんなに自由になれるんだ。

生まれて初めて、「私自身を表現できている」「ありのままの私を見てもらっている」 と実感できた恋愛でした。

それまでは、「結婚なんて自分にできるわけがない」と思っていたけど、ごく自然に「この人と一生一緒にいたい」と思いました。


夫婦として生きていくために

さて、結婚後も、自分の性質とはずっと向き合ってきました。
生涯最高と思えるパートナーには出会えたけど、「恋愛依存体質」「浮気症」といった自分自身へのラベリングが剥がれた訳ではなく、自分という人間を正しく理解する必要性をずっと感じていました。

子どもを産み育てることで、「子への愛」というものを学んだり、逆に「親への愛」を受け取ったり。
昔は強い苦手意識があった同性の友人が少しずつ出来たことで、「ともだちへの愛」を学んだり。
夫の会社で雇用主側の立場に立ち、「従業員への愛」という種類の愛まであることも知りました。

ライフステージがいくら変わろうと、私の人生の全てが「愛を学ぶこと」を中心に回っていて、私は本当に人を愛することばっかり考えて生きてるんだなぁと思いました。

そんなある日、「ポリアモリー」という概念を知り、視界が一気に開けた感覚がありました。
これだ!と雷が落ちるような感じというか、全てが繋がって、20年間抱えてきた重荷をようやく降ろせたような感覚でした。

(関連書籍を色々読んだ上で、今では自分は厳密にはポリアモリーじゃないなと思ってはいますが、非常に近しいものではあります。現在、私は自分の志向を「複数愛」というオリジナルな言葉で、言語的には一応定義しています)

とは言え、それはわたしの個人的・内面的な解決にすぎません。

夫は多様性に理解があるとは言え、「愛は一対一」という"フツウ"の価値観の人であり、夫として妻が他の人と恋愛するなんて許せるわけがない、絶対ムリだと言いました。
私はそれでも、「その拒否感は思い込みかもしれない」「常識に囚われないで一度フラットに考えてみてほしい」と食い下がりました。
非常識極まりない価値観やお願いは、夫にとっては苦痛でしかなかったと思います。
それでも、世間一般の「夫婦」の価値観を盾にして頭ごなしに私を拒絶することなく、誠心誠意向き合ってくれたことに心から感謝しています。

そうやって慎重に話し合った結果、私は結局、今の自分は「複数愛」という生き方を選ばない、という選択をしました。
世間の常識で考えれば身勝手極まりないことを言ってる私を、軽蔑して拒絶してもおかしくないのに、力を尽くして理解しようとしてくれた夫は、やっぱり私にとって世界で一番大切な人だと再確認しました。
そんな夫と一緒にいることが私が何より必要としていることであり、逆にどれだけ自分にとって大切なものが他にあっても、それらが夫を超えることはないと分かったんです。

だから、結婚して12年が経った今も、こんなに難易度の高い私をひたすら受け入れてくれる夫を、絶大に信頼しているし、生涯手放さないぞと思っています。
まぁ夫の方が、どこかで私に愛想を尽かす可能性はあるんだけどね。


おわりに

ポリアモリーという概念を知った時、「やっと救われた」と感じると同時に、実は、大きな絶望も感じました。
今更こんな事実が判明したところで、もう私は結婚してしまっているし、子どももいるし、どうすればいいんだ?
複数愛を実践して生きたいなら、離婚するしかないの?
そんなの絶対いやだ…
夫や子どもたちのいない人生なんて何の意味もない…

でも、さまざまな形で相談して、全員から一様に言われたのは、「白黒はっきりさせなくていい」ということでした。
人生はAかBかって簡単に決められることなんて少ない。
複数愛という自分の性質にしても、そうである時もそうでない時もある。
0か100かで考えようとすることに無理がある、と。

当初はそんな意見に納得できませんでした。
はっきり答えを出さなきゃいけないと思っていました。

でもどうやっても0/100で答えなんか出せないじゃん?ってところまで突き詰めたら、執着がふっと消えたような気がしました。

私にとって一番大切なことは、「複数愛」という生き方を実践することそのものではなく、そんな世間一般では異端と思われるような私を(たとえ共感はできなくても)正しく理解しようと努力し続けてくれる人がそばにいることだったんだ、と気づいたんですよね。


これを読んでくださっている方の中にはもしかしたら、綺麗事を言うなとか、いやいや白黒はっきりさせろよ、とか思われる方もいるかもしれません。
つまりはただの浮気症を正当化したいってことでしょ?と思ってらっしゃるかもしれません。
子どもや夫がかわいそうだと言われる可能性もあります。
家族に迷惑かけるんだから、こんなことカミングアウトせずひっそり生きろよ、と言われたら返す言葉もありません。

でもそれならそれで仕方ないというか、こうして自分を外へ向かって表現し続けることでしか、私は私らしさを保てないんです。

そして、同じようにしんどい思いをしている人が何かしら前へ進むきっかけに、このnoteがなればいいと心から思います。

そして、いずれ、複数愛というものがもっと世間に浸透して、「人が人を好きになる」というどう考えてもポジティブでしかない感情がもっと多様な意味合いで大きく広がる日がくることを願っています。

それが、独りよがりな私が20年かけて出した、とりあえずの今の答え、です。

この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,818件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?