「この村には決断力・行動力がない」の正体②無意識のその背景
この村の特色について観察をまとめた続きです。
前回の記事で捉えたことの背景について言語化してみましょう。
その背景というのは、
何も“ない”ところで生まれて受け入れて育つと
自分でどうにかする力が自然と育まれる
なのかもしれません。
村の先人たちの物事の捉え方ややり方を観察していて次のような事に気が付きました。
・現実と出来事をありのまま受け止めること
・満たされないものを自ら満たすこと
・足りないものを自ら取りに行くこと
・自分にできることは何だろを考えること
・粛々とやること
日々、そういうことを自然のうちにやっていました。ちなみに、やらされているとは違いますし、意図してそう育てられた訳でもありません。
※自分で運転して行ける、発言できる、お金を稼いで買える、サバイバルできる、といったdoだけの意味ではありません。
何が満たされたいのかを自分に問い合わせ、
できることを粛々とやる、そういう総合的なことです。
“ない”を排除していないんですよ。
“ない”に執着して「ないはずだ!」なんて事もない。
“ない”状態が自然にそこにあり、それを否定も肯定もしない姿があります。
湧いてくる感情もあるがままを受け止めて「悔しいんなぁ」とか「切ねぇよ」と言います。
本人たちは自分には学がないとか言いますが、知識や意味付けが先立たないから逆に良いのかもしれません。
すると捻れることなく自分を受け入れることができます。自己受容です。
自分に嘘がないと、素直な静かな力が湧いてくるのだと思います。
まったく逆に、“ある”前提に執着すると
◯◯がない、◯◯が足りない、という場合に
「あるはずなのにない」という状態になるのは、執着が起きているのかもしれません。
“ある”に執着すると、「あるはずだ」になります。
例えば調和があるはずなのにないとか
信頼がないとか、理解してもらえないとか。
あるはずのものが無いと、苦しいですよね。
ネガティブな感情もこれらが元になって生じてきます。
(NVCではニーズが満たされても満たされなくても感情が生まれますが、ニーズが満たされないといわゆるネガティヴな感情となって感じられます)
(仏教では感情は五蘊のひとつで、五蘊に執着があると苦が生じます)
しかし
“ある”だって、否定も肯定もせずにありのまま認めることができます。
“ある”ということも自然のままに在ることができます。
すると、“ある”のは「ありがたい」という感謝の気持ちになるのかもしれませんね。
この村の先人たち
前回の記事でこの村の人の特色として
◎ヨロイ(満たされなかったものを満たそうとする個人の原動力)には公費を払わない
◎人に対する執着や依存があまり見当たらない
◎「ありがてぇ」の世界に生きている
を挙げました。
これらの背景には、何も“ない”のが前提で自ら満たす力がある、“ある”には感謝をする、ということが自然に存在している(肯定も否定もしない)からではないかと思います。
“ある”と“ない”の一部始終
村の先人と、「あるはずだ」の人のやりとりを見たことがあります。
村の先人に「○○してほしい」「ああしてくれない」とお願いしても
「…???」という反応をされたり、結局動いてくれない、という事があります。
お願いした方にしてみれば、「やってくれない」とガッカリしますよね。
しかしそこでそれを「決断力、行動力、ヤル気がないからだ」と意味付けしてしまうと、すれ違いに繋がっていきます。
実は、相手はピンときていない・よく分からない、という状態なのかもしれません。
なぜなら前述したように、ないのが自然で自ら満たす力があり、さらには執着がなく、ありがたい世界を生きているためです。
そんな彼らの世界観を知ると、今よりもっと話がしやすくなるかもしれませんよ(∗˃̶ ᵕ ˂̶∗)
私の目には先人たちがこのように映ります。
みなさんは、どんな風に視える?
万象万物は相対性のなかで存在するというのが縁起なのだそうです。
この世界の万物万象は常に何かとの関係性、相対性の中で存在しています。
それが生まれる場所が空です。
空は慈しみの世界です。
存在することは、ありがたいことなのかもしれません。
苦しい時は、現実をありのまま、肯定も否定もせずに受け止めてみるといいよ
と、村の先人たちから教えてもらっているようです。
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