社会の広告屋のメガホンch〜ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「物心ついた時には非行少年や不登校生、障がいのある若者たち30人と暮らしていた」工藤啓さん(認定NPO法人 育て上げネット理事長) 書き起こし Part①

工藤啓さん(認定特定非営利活動法人 育て上げネット理事長)
聞き手:山田英治(社会の広告社)

〜この記事は上記動画を書き起こしです〜

工藤さん)認定特定非営利活動法人、育て上げネット理事長の工藤です。私達は若い人達の就労支援や子供たちの学習支援、生活全般の支援を主に活動しています。

山田)育て上げネットを作ったきっかけを教えてください。

工藤さん)元々、両親が民間版の児童養護施設を運営しており、物心ついた時から不登校や非行、障害で悩む人々と共に生活していました。朝ごはんは30名ぐらいで食べ、夏休みのキャンプは100名ほどで行くような生活です。自立して生活できるようになると出て行ってしまうので、入れ替わりのある血の繋がらない家族のようでした。

地元の学校に行けなくなったり、家から出られなくなったりする若者達は、地元にいると苦しくなるため、東京など地元ではない場所に出ることが多いです。そういうことに理解のある家庭の若者であるほど恰好が付くため、特に東京に出やすいようです。

北海道から沖縄まで全国の5歳から10歳も上の人達と男女関係なく暮らしていました。彼らも不登校や障害を理由に、ひどい目に遭う地域に住まれていたのだと思います。

私は産まれた時からその環境だったので、小学生になるまでは他の子と違うことに気が付きませんでした。友達の家に行った時に、家族しかいないことに違和感を覚え、そのとき初めて自分の家が特別な家族形態だったのだと感じました。

山田)そういった状況に気がついた時に、何も疑問も起きず、反抗期というか、お父さんやお母さんに自分のことも見て欲しい、というような苛立ちはなかったですか?

工藤さん)私の両親は、自分の子どももそうですが、一緒にいる人達はある種のお客さんでもありましたので、両方ともかなり気を遣って見ていました。小学校3年生か4年生の時に、「お父さんお母さんのお仕事」という宿題が出されたのですが、自分の家の職業が分からず、先生に何と答えていいか分からないと助けを求めましたが、先生はそれを助けられず、結果としてその先生は飛ばされました。

山田)(笑)

工藤さん)これは何の仕事をしているかが分からない、名前がない、自分の家はそういうことなんだなと思った時、最初はややショックだった記憶があります。

初めて家業に自分が組み込まれたと思ったのは中学校2年生の時です。共同生活は早ければ中学校から始まるのですが、初めて自分の同級生が来たとき、学校の先生や部活の先生、両親から「こいつよろしくね」と言われたので意識しました。

一緒に暮らしている人間を支える側として周囲の期待があったので、初めて嫌な感情を持ちました。部活など、自分のコミュニティーで『どうして彼は一緒に住んでいるの?』といった話に何度も答えないといけないので、すごくストレスでした。

40年以上昔の話ですが、障害を持っている人も多くいたので、現在のように福祉の環境も無かったためか、家に投石されたり、『お化け屋敷』や『変な集団』などの心無い言葉を言われたりしました。それらが耳に入ると、両親の家、自分が住んでいる環境は一体何なのだろうと、言語化できないモヤモヤ感がありました。

山田)そのように工藤さんが成長された中、すんなりとNPOをお父さんと同じようにやろうと思われたのですか?

工藤さん)小学校6年生の時の文集ではプロサッカー選手になりたい、中学校の時は総理大臣になりたい、高校卒業時はジャーナリスト、新聞記者になりたいと書いていて、若者支援やNPOという選択肢は全くなく、具体的な筋道があったわけではありません。

山田)ちなみに、どうして総理大臣になりたかったのですか?

工藤さん)当時「SimCity」という街づくりのゲームに熱中していて、道路を線路にしたり、建物を建てたり壊したりを、自分の意志でできて面白かったのが1つの理由です。

もう1つの理由は、両親の「自分の税金がどれくらいかを知るために、日本は全員確定申告した方が良い」という話にすごく共感して、総理大臣になればそのようなルールが作れるのではないかと、本当にただそのように考えたからです。

今思うと、中学生ぐらいのとき、何かルールを変えるとか、ルールを作るっていうことが何となく好きになっていたのではないかなと思います。

30人でいろんな人と暮らすとなると、それなりに暮らすためには常にルールを変えていく必要があります。たとえば母親の場合は、「下に落ちているものは捨てる」というルールを作って、本当に落ちているものは捨てていました。

でも誰の落とし物か分からなくなったり、踏みつぶしたり、盗った盗らないというような小さな問題がいっぱい起きてしまうので、広めのルールは結構ありました。

障害を持っている人や何かが苦手な人とキャンプに行く時も、相応のルールが必要で、たとえば遊びで高いところに登ったら鬼からタッチされないようにするとか、このようなルールを変えたりすることが自然と身についていたのだと思います。

山田)でもその先はジャーナリスト志望になったのですよね。社会問題に向き合いたい、社会問題の啓発をして、世の中をより良くしたいといった意識があって、それで『ジャーナリストになりたい』ということになったのですか?

工藤さん)そこまで深く考えていないと思いますが、インターネットの無い時代でしたので、新聞とテレビが家に取材に来ると、翌日の黒電話の鳴り方がすごかったのですよ。

全国からの『うちの子供が』とか、『うちにいる娘が』というような電話ですね。皆さんどこに相談して良いか分からないし、調べようもない中、〇〇新聞に出たとなれば、次の日のあり方がまったく異常に感じました。特に子供にとって。

メディアって凄いなという話でもありますし、テレビや新聞の影響力が時代的に強かったのを自宅で体感していたので、記事を書くとか放送を流すって本当にすごいと思いました。それで高校の時には新聞記者とか面白いかもしれないと思いました。

山田)なるほど。ではその流れで、大学もメディア系に行かれたのですか?

工藤さん)成城大学のマスコミュニケーション学科に合格し、そこで2年間専攻していました。


【海外でソーシャルインベストメント(社会的投資)の考えにふれ、日本でも実践したいと思った】


山田)そこにはまだ若者という文字、若者支援という文字はないわけですよね?いつどのタイミングでやっぱり若者支援を、となったのでしょうか?

工藤さん)高校から大学に行く時に、サッカーを続けるかどうかをまず迷ったんです。高校もそれなりにサッカーを頑張ったつもりだったのですが、大学に入って部活をやろうかなと思った時に、そこでプロにはなれないともう分かるわけですね。

365日部活みたいな生活でしたので、プロサッカー選手になれないとなったら違うところを見ようということで、まずアルバイトをすごくたくさん楽しくしていました。そうするとお金が入ってくるので、海外に行ったことがなかったので、ふらっと1か月くらい海外に行って、その国の現地の人と一緒にサッカーをしていました。

何カ国かでそれをやっていたら、たまたまアメリカのシアトルで、台湾人と仲良くなって泊めてもらいました。英語はできなかったので漢字で色んなことを喋りました。当時流行っていたモーニング娘とか。その時に「どうして台湾ではなくアメリカで勉強しているの?」と尋ねたら、予想と違う回答で衝撃を受けました。

お金持ちになりたいとか、英語を喋れるようになりたいとか言うと思ったのですが、彼らは「いつ中国を含めた台湾という小さな国が有事になるか分からないから、アメリカに来て勉強や仕事をして市民権を得て、有事の際は家族を逃がす」と真面目に話していて、そんなことを同世代が考えているのかと驚きました。

そんな彼らと一緒にいたいと思ったので、翌日彼らの学校に連れて行ってもらい、入学の仕方を教わって、日本に帰国したあと両親に『日本の大学を辞めてアメリカへ行きたい』と言いました。両親に『なんでだ?』と聞かれたので、その台湾人と一緒にいたいということを伝えたら承諾してくれました。

当時、TOEFLで500点を超えたら語学学校を飛ばして入学できると言われていたので、試しに1回目を受けたら503点でした。その後は1年間ずっと500点を超えなかったのですが、許しをもらえて、アメリカに行って良いと言われました。

台湾人の彼らがビジネス学部だったという理由で、同じくビジネス学科の経営学科を選んだのですが、そこから周りにいる人達がメディアの話をする人からビジネスの話をする仲間に変わりました。これはかなり大きな影響があったと思います。

山田)そうすると通常ベンチャー企業ですね。ビジネスを立ち上げたいと思いますよね。

工藤さん)1年生や2年生だと就職活動の話をほとんどの人がしませんでした。夢物語でまず、こういうのを作る。それをお前は日本で売って、お前はお前の国で売って、という話をお酒を飲みながら盛り上がったくらいです。それでも業を起こすという話からしかスタートしない世界でしたし、そういう友人達でした。

日本の友人は就職活動で『やっぱり就職っていつかするのかな』とか『就活苦しい』と言っている時代に、アメリカの友人達はみんな起業と言っていました。

そのうちに若者支援という文脈がふと出てきました。日本はこれから若者支援だという話に偶然なり、ヨーロッパに行ったら自分の家業と似た世界があったのです。それで、帰りの飛行機で『起業しよう。だめだったら勉強すれば良い。』と思い、アメリカの大学生活が続く予定でしたが、帰国後に起業し、20数年経ちました。

留学当時、色々な起業の話をする時に『ある国では今これが流行っているけど自分の国ではどうか』という考えもあったのですが、ヨーロッパの友人から『日本も中高年のリストラ問題があるらしいじゃないか。ということは若者達が就職しづらい環境で就職しづらい若者が社会に出ればマーケットができる。今じゃないか?』と言われてヨーロッパに行ったのですが、それがなければここにいないと思います。

『日本でも若者支援のマーケットはできる。お前は日本人で、そんな世界の実家で生きてきたのだから、やる以外の選択肢はない。』という助言は自分では考えつかなかったです。いつもの飲み会の話で適当に投げた助言だとは思いますが。

山田)就職氷河期世代がもう世の中にいて、日本ではそういうことが社会問題になっているというのをヨーロッパの彼が知っていて、それがソーシャルビジネスの良いマーケットだと指摘したのですね。

工藤さん)でもその時はソーシャルとは言っていなかったんですよね、ビジネス学部だったので。ヨーロッパに行った時にその社会的投資という言葉に出会ったのを覚えています。investment(インベストメント)、投資は勉強したんですよ。ソーシャルの意味が分からず、それで『ソーシャルはどういう意味なんですか』と聞いたら、『社会が良くなったり問題を解決したりすることがリターンだよ』と言われました。

帰国後にしばらくして「ソーシャル」という言葉がすごく当たり前に使われるようになったので、あの時にソーシャルという言葉に出会ったのはラッキーでした。

山田)ソーシャルインベストメント(Social Investment)、日本語にすると社会的投資ですね。今でいうとSDGsを含め、インパクト投資とかですね。そういう意味では一般化してきていますけど、当時はそういう発想は『社会に投資するの?』という感じに捉えられましたよね。その他にも『リターンが何なの?』という具合で。

(工藤さん)その時はやはり分からなかったのですが、両親に『どうしてこういう仕事しているの?』と尋ねたら、『やはり本来一人一人の人生を豊かにできる存在が家に一緒に暮らしていれば、実際に働いたり生活者になったりしていく中で納税者にもなるし、その本来の力を社会に出すことを手助けしたいんだ』ということを言われました。

もしお金に直せば計算できるようなインパクトにはなるでしょうし、お金に直さなくても、そのように両親が言っていたことは、「ソーシャルインベストメント」という言葉をヨーロッパで聞いた時と近い感じで頭の中で結びついたと思います。

山田)家業でされていた若者支援とはまた違う若者支援だと思うのですが、工藤さんは当時どのように両親がやってきた支援と違うことができると思ったのですか?

工藤さん)一つは実家で暮らしている時、すごくたくさんの人たちが集まったりしてはいたのですが、ビジネスパーソンの人、例えば企業の社長さん、大企業とかの行政の方とかが恐らくほとんど来ていませんでした。そこで、いろんな人達が若者を応援しようという時にも行政や企業と繋がりのある「業界若者支援」を作ろうと思いました。

お金というものから逃げずに、もらうべき時はちゃんと『ください』と言わなければいけないですが、『払えない』という人に『じゃあ無理ですね』とも言いたくないので、その点、業界の中では他とは違うポジションをやれると思いました。


【社会的な事業で、「お金から逃げない」とはどういうことか考えた】


山田)そこで勝負しようということだったのですね。育て上げネットが2004年ですかね?

工藤さん)運が良くて、2004年の5月ぐらいに「ニート(若年無業者)」という言葉ができたんですね。それをすごくメディアも取り上げて、取材先探しが始まりました。

元々不登校とひきこもりという言葉の世界に支えられた若者支援だったので、目新しさの欲しいメディアの方々からすれば、立ち上げ間もない私たちの姿はまさに、学生ではないが自宅から通っているし「ニート」に映ったのだと思います。

それで、ものすごい取材があったのと、政府もそういう若い人達を支援していこうという動きを2003年頃からしていたこと、NPO(非営利活動法人)が活躍すべきであるという時代の流れ、若く起業した「若者」が互いに掛け合って、本来ありえない早さで政府の審議会や委員会が進みました。委員会にも呼んで頂きました。

いろいろな委員会の座長の先生からも可愛がって頂いて、自分たちの世界をそこで話しただけで、国の政策にその一文が入ったりしていました。

今は当たり前ですが、困っている若者本人が支援の場に来られない時は家族がアクセスするので、その家族を支援するというのも若者支援では当然なのですが、国の政策ではそうはなっていませんでした。

その話を国の委員会でしたところ、家族への支援が若者支援政策の中でできるようになったりしました。経済と向き合っていくぞと思っていたのですが、公共機関、行政、自治体ともきちんと話をしていけば、もっと広い世界、社会にも関わりや貢献ができそうだなと、26歳ぐらいの時に見えてきました。

官僚、霞が関という言葉で表現される人達と話に行って、本当にいろいろなことを考えられていると思った一方、行政の中だけではできないこともあって、民間NPOとして貢献できるところはあるな、というのは強く感じました。

2006年、2007年ぐらいにぶわっと生まれた、僕ら世代より少し下の「社会起業家」の人達が、社会をどうしていくかということと経済面を組み合わせた事業のあり方というのを注目していく中で、いろいろな情報が海外からも入ってきていたので、社会的な事業とお金から逃げないとはどういうものか、こうやってやるのか、こういう考えがあるのか、と当事者として考えられたことは非常にラッキーでした。

「社会起業家」というラベルが貼られただけで、誰も「社会起業家」になろうとは思っていなかったはずです。そんな言葉もなかったですし。良くも悪くも、ラベルが貼られたことで社会と事業の両方を組み合わせないと、という話ができました。

事業はどのように組めば良いのだろう、行政とはどう付き合って、企業とはどう付き合って、地域の人達とはどう付き合って、一緒にやっていくのが良いのかなという時に、いろんなセクターの人達と比較的仲良く話せたのは、家業が若者支援のNPOで、いろんな人達と一緒に生きてきたからだろうなと思いました。

両親から『この仕事をするうえで、お前の不得意と得意がある。まずお前はリーダーシップを持っているタイプではない。小学校も中学校も高校もサッカー部が副キャプテンで、力強く引っ張っていくタイプではない代わりに、いろんな人とコミュニケーションをとる能力がある』とよく言われていました。

『若者支援の業界で足りないもののうち一つが、行政ときちんと話をできること。一般的な企業とタイアップして仕事を作ることは多分お前に向いていると思う。逆に地域に入り込んで地道にやるとか、目の前のことを何時間もかけて話し合うのは支援のプロに任せた方が良い。お前は経営に向いているが支援には向いていないので、経営であれば若者支援を起業する芽があるかもしれない』とも言われました。

それには何となく自覚もあって、亡くなってはいますが、父親の「(向いているのは)支援者でない」という言葉は大きかったです。自分には支援できないかもと不安でしたので。

―工藤啓さん パート2に続きます。― 


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