何かを受け入れるということ
どうも、斜陰です。
久しぶりの投稿です。
2月から現在(7月)にかけて、とあるウイルスによって長期間、自宅にいることを余儀なくされた大学生の一人が僕です。
大学の授業は先々月より再開されましたが、前期の授業はすべて遠隔で行うことが決まっており、今後も自宅にいる時間は長くなりそうです。
とまぁ、今回はこれが本題ではないので、このくらいにして。
今日、書きたかったことに移っていこうと思います。
これから書くことは、僕が日ごろから感じている違和感の一種を言語化するものであり、僕の主観120%でお送りしたいと思います。
それでは始めようと思います。
今日のテーマ
僕が今回書きたいことは次のことです。
「何かを受け入れる」とはどういうことか?
ここで、読者の方の中で僕が何を書きたいのか見えてきていたとしたら、おそらく僕と近い感性を持っているかもしれません。
しかし、誰しもが全く同じ感性を持っているということはあり得ませんし、僕と感性が近かったからと言って、別にうれしくもなんともないでしょう。
ともかく、続きを書いていきますね。
「何かを受け入れる」ということ
「何かを受け入れる」
そもそも僕がどの程度の範囲内でこの言葉を使おうとしているのか、読者の方に説明する義務があります。
僕は今回、この言葉を広義な意味で使おうと思っています。
簡潔に言うとすれば、僕たちの日常生活において自分とは異なる価値観が自分の生活の範囲内に入ってきたときに、それを自分のなかに取り込むことと今回は定義します。
ただ、この説明だけでは伝わりにくいと思うので、具体例を挙げようと思います。
僕たちはコンサル会社に勤めています。
今現在7人のメンバーで、ある会社の経営戦略についてのプロジェクトを進めています。
僕はなるべくリスクを冒さずに市場規模を徐々に拡大し、少しずつ利益を向上させていきたいと考えています。
しかしながら、7人いるメンバーのなかの2人は僕の考え方とは異なる戦略を練っているようです。
どうやら、その2人は多少のリスクを背負ったとしても、成功した際に大きな利益を得られるような一攫千金型の戦略を練っているようです。
すなわち、その2人は僕の生活の範囲外の考え方をしており、その考え方は自分とは異なる価値観もしくは考え方と言えるわけです。
そして、その後お互いにそれぞれのメリットデメリットを出し合い、1つの方向性にまとめていくわけですが、ここで1つ気になる点があります。
異なる価値観とそれに対する自分の向き合い方
もしも、話し合いを通じて相手の意見や主張の方が妥当であると考えた場合、その意見や主張に対して、自分は自分の中でどのような処理を行うのでしょうか?
僕はそれを受け入れるのでしょうか?
それとも、突き放すのでしょうか?
今回は僕がどちらを選択するのかは問題ではありません。
大事なのは、もしも僕が自分とは異なる価値観や主張、考え方を受け入れようとしたとき、僕はそれを肯定するのか、それとも否定するのかということです。
つまり、「何かを受け入れる」ということは、それを「肯定する」ということなのか、それとも「否定する」ということなのか、どちらなのかということを僕は皆さんに問いたいと思います。
「何かを受け入れる」=「肯定する」
or
「何かを受け入れる」=「否定する」
皆さんはどちらだと思いますか?
これはあくまで僕の予想ですが、7割くらいの方は前者、つまり「何かを受け入れる」ということを「肯定する」と同じ意味で使っているのではないかと推察します。
もう一度言いますが、これはあくまで僕の予想でしかありません。
予想ははずれてもいいのです。むしろ、はずれてほしいと僕は願っています。
ともかく、話を進めます。
ここで、僕の立場について触れようと思います。
僕はどちらでもないと思います。どちらでもいいと思います。
ただ、こんな風に書くと、中立的な立場をとることで、自らの価値観の決定から逃げていると思われるかもしれません。
それは仕方のないことです。そのように見られるのは仕方のないことです。
そのため、僕の立場をもう少しはっきりさせておきたいと思います。
「何かを受け入れる」=「肯定する」?
僕はどちらかと言えば、「何かを受け入れる」ということは「肯定する」に近い意味をもつ行為だと考えます。
なぜか?
人間は自分とは異なるものが自分の生活の中に入りこんで来ようとしたときに拒絶反応を示します。つまり、何かを受け入れる際にはそれを肯定しなければ受け入れることはできないと考えることができるのです。
だから僕は、こちらの立場によります。近づきます。
ただ、僕はやはり疑問に思うのです。
「何かを受け入れる」ときにそれを否定してはいけないのか。
否定したとしてもそれを受け入れることはできるのか。
すなわち、「受け入れる」という行為の中に「否定する」という行為が内包されているのではないかと僕は思うのです。
「多様性」という何か
最近、「多様性」という言葉をよく耳にします。
「多様性」
この言葉は場合によって諸刃の剣になり得るものだと思います。
今の社会では、少しずつではありますがこの「多様性」を受け入れようとする風潮が広がっているように思います。
これは、確かに良いことであると思います。
これまで受け入れられてこなかった、個々人の個性や特徴が受け入れられ、それぞれの幸せを自らの意思に従って追及することができるような社会になると思います。
これは、本当に素晴らしいことだと思います。
しかし、「多様性」を受け入れようとするときに、それに対して無批判に肯定することが受け入れるという行為なのでしょうか?
「多様性」を受け入れるということは、「多様性」を肯定するということなのでしょうか?
僕はそうは思いません。
「多様性」を受け入れるということは、それを肯定することではなく、否定することでもないと思います。
「多様性」を受け入れるということは、それを肯定することでもあり、否定することでもあると思います。
すなわち、「多様性」に対する受け入れ方は人それぞれだと思うのです。
「多様性」に対して、僕たちは否定してもいいと思うのです。
否定しながらも、それを自分の中に取り込むことはできると思うのです。
今日のまとめ
それでは、今回のテーマに対するまとめをしようと思います。
「何かを受け入れる」という行為は、それを肯定することとは限りません。
「何かを受け入れる」ということは、それを肯定することでもあり、それを否定することでもあると思います。
自分とは異なる価値観と出会ったとき、自分は肯定するのか、はたまた否定するのか、それは自分の意思で判断することができ、どちらを選んだとしても、異なる価値観を自分の中に取り込むことができると思います。
むしろ、そういう姿勢で異なる価値観と対等に対話することが今後の社会において重要になってくると僕は思います。
それでは、またいつか。またね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。 皆様から頂いたサポートは今後の自己研鑽のために使わせて頂きます。 僕の書いた文章で何か少しでも感じていただけたら、僕にとってこれほどうれしいことはありません。