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他人から見た「自分」と自分から見た「自分」となりたい「自分」

どうも、斜陰です。

いきなりなんですが、僕は物心ついたころから「自分」の正体にずっと頭を悩ませてきました。暇さえあればいつもそのことを考えていました。暇がなくても、頭の片隅にはいつもそいつがいました。

でも最近、そのことに関して自分の中でちょっと進展がありました。

なので、今回はそれについて書いていこうかなと思います。


まず初めに、僕は他人からの目をめちゃくちゃ気にします。

僕は自分が他人からどう思われているのかをめちゃくちゃ気にする人間です。

なので、他人からの言葉にすごく影響されます。自分で言うのもなんですが僕という人間はすごく繊細な人間だと思います。

だから、僕のメンタルは半分以上他人に支配されていたと言っても過言ではありません。

まぁ、ここでお気づきの方もいるかと思いますが、過去形です。

そう、それは僕にとって5,6年くらい過去のことかと思います。

つまりは僕が中学生になるかならないかぐらいのことだったと思います。

ちなみに僕が当時住んでいた地域は割と田舎というか結構田舎で、幼稚園、保育園のころから高校生になるまで、基本的には同じ仲間たちとともに過ごしてきました。なので、気心知れた仲間たちに囲まれて本当なら周りから見た「自分」なんて気にしてもしょうがないくらい、お互いのことを知っているような関係でした。でも、逆に言えば物心がつくすなわち自我が目覚めるころには、既に周りから見た「自分」というのが存在していました。もし仮に、そのときの自分から見た「自分」と他人から見た「自分」に大きな相違がなければ、僕はここまで「自分」の正体に頭を悩ませることはなかったでしょう。でも、そこに相違があったからこそ今の自分がいると考えれば、別にそこまでショックを受けているわけではないと言いますか、何と言いますか、割と僕は今の「自分」が好きですし…。

いや、まぁ別にそんなのはどうでもよくて、ここで他人から見た「自分」をあまり気にしなくなったのはなぜか?ということについて少し考えていこうと思います。(あまり気にしなくなったといっても、今でも2割くらいは他人からの目を気にします。)

まぁ先程もお話ししたように、小学生5,6年のころは周りからの目を気にして本当の「自分」をさらけ出すことができずにいました。でも、中学生になるくらいに他人からの言葉や評価に踊らされるような「自分」は嫌だと思いました。だから当時の僕はこう思うわけです。

もう僕は他人からの目なんか気にせず、ありのままでいるんだ

と。まぁいわゆる、自我の覚醒というやつですね。いや、知らんけど。

そして、すべてが順調に進んだのか?と聞かれるとそうでもないです。

本当の「自分」をさらけ出すにあたって、それを受け入れてくれる人もいれば、逆に嫌う人もいました。というか、おそらくいたと思います。なので、気心知れた仲間と言えど、衝突することもあれば、ちょっと昔の言い方で言うといわゆる拳で語り合う的なこともままありました。でも、今となっては思春期真っ盛りだった過去の大切な思い出です。

そして、徐々に本当の「自分」が周りに受け入れられるに従って、僕はいつの間にか周りからの目というものをほとんど気にしなくなりました。つまり、この時点で周りから見た「自分」と自分から見た「自分」の相違がほとんどなくなったわけです。まぁそのピークは中学2,3年生のころだったかと思います。

そして、時は流れ僕は高校生になるわけです。実はここからが本題です。ここまで書いたことは前置きに過ぎません。ただの前提条件です。まぁ理系の僕にとって、その前提条件とやらはとても大切なものなのですが…、まぁつまりはそういうことです。

はい、というわけで続けます。

まぁザックリ言うと、高校生になった僕はまたしても周りの目を過剰に気にする人間に戻ってしまいました。というのも、ちゃんとした理由がありまして。僕は先程も言ったように高校生になるまで幼稚園、保育園から気心知れた仲間たちと過ごしてきました。しかし、高校生になって初めて周りが誰も知らない人ばかりという状況に陥りました。つまり、同学年に僕と同じ中学校出身の人がいなかったのです。いや、本当に1人もいませんでした。

まぁさすがに入学早々誰も知らないという集団の中で、本当の「自分」をさらけ出すほど僕のメンタルは強くありませんでした。

そして、ここからまた他人から見た「自分」と自分から見た「自分」の相違に頭を悩ませるわけです。

ただ、当時の僕は他人から見た「自分」と自分から見た「自分」との相違をなくしたいとは思っていたものの、勉強やら部活やら高校生の生活に忙しくしていたこともあり、なかなかそこに時間はかけられませんでした。

ただ、当時の僕は高校生です。なので、自分の存在意義が何たらかんたらと人並みに悩んでいました。そして、それも相まってなのか、やっぱり他人にも本当の「自分」を知ってほしいという欲が生まれるわけです。

まぁいわゆる、自己承認欲求とかいうやつですかね。

まぁ、その後の心の変化はまるでジェットコースターのようで、説明するのも一苦労なのでここでは割愛しますが、最終的に他人にも自己承認欲求があることに僕は気が付きます。考えてみれば、当たり前なんですが当時は自分のことで精一杯で周りに目を向ける余裕なんてありませんでした。(まぁ今も割と自分のことで一杯一杯なんですけどね…)そして、それに気づいたとき、他の人も他人から見た「自分」と自分から見た「自分」に頭を抱えていることを知ります。

その時です。僕の肩がふっと軽くなったような気がしました。

他の人も僕と同じように本当の「自分」をさらけ出すことに抵抗感を抱いているのかと。

そしてそれ以降の僕は本当の「自分」をさらけだすことにあまり興味がなくなってしまいました。興味がなくなってしまったというか、周りもそれで悩んでいるならば、それは当たり前のことなのだと自分の中で勝手に完結してしまったのです。

本当にそれからというもの僕は、しゃべることがあまりできなくなってしまいました。いや、こう書くと少し大げさなのでもちろん訂正しますが、自分の頭の中で考えたことすなわち自分の意思が明確でないこと以外はあまりしゃべりたくなくなったのです。もっと言うと、自分の中で不確定なものを表に出して、それが他人から見た「自分」になることを恐れたのです。増してや、他人に本当の「自分」を推し量られることなんて嫌で仕方がありませんでした。自分でも自分自身のことを正確には理解できていないのに、勝手に本当の「自分」とお前から見た「自分」と重ねるなと。まさに、これぞ思春期絶頂って感じだったのですが、その後も僕は本当の「自分」をさらけ出すことのないまま、つい最近まで生きてきました。

そう、つい最近まででです。

つい最近まで、もう本当の「自分」をさらけ出すのなんて、いろいろと疲れれるし、自分も相手も傷つくし、良いことなんて全然ないなぁなんて、半ばあきらめムードの自分がいました。

でも、つい最近です。それは本当にふとした瞬間でした。


それは、あぁ早くテスト終わんないかなぁ、レポートも仕上げないといけないし、今日は料理作るのめんどくさいなぁなんて思いながら歩く、お総菜屋さんから家までの帰り道でした。

こう…、なんていうか、そいつは、さららんと降ってきたんです。


たとえ自分の正体がわからなくても、なりたい自分を見つければいいんじゃねぇの。


はい、ただそれだけです。こんな長くたらたらと書いてきて言いたかったのはこれです。これだけなのです。


僕はこれまで自分の正体がわからない。自分の意思を確認する術はない。

だから、本当の「自分」をさらけだすことをあきらめていた。

不本意に言葉を発し、誰かに誤解されて自分が傷つくことを恐れていた。

勝手に誰かの本当の「自分」を推し量って、誰かを傷つけることを恐れていた。

もう、本当の「自分」なんてどうでもいい、そんな風に思っていた。

だから僕は、他人と話すことがどんどん憂鬱になっていった。




でも、僕はもう怖くない。

今なら本当の「自分」をさらけ出せる気がする。

なぜなら、それが僕のなりたい「自分」だから。

最後まで読んでいただきありがとうございます。 皆様から頂いたサポートは今後の自己研鑽のために使わせて頂きます。 僕の書いた文章で何か少しでも感じていただけたら、僕にとってこれほどうれしいことはありません。