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僕が僕である理由 なぜ「同性」に魅かれるのか?

こんにちは、Shadeです。
僕は30代、既婚(子無し)、バイセクシャルでメンタル疾患持ちの男性です。

今回はタイトルの通り、バイセクシャルである自分が、女性に恋愛感情を抱く一方で、なぜ男性にも(主に性的な)魅力を覚えるのか、について改めて考察してみようと思い筆を取りました。

これは、最近の自分のテーマである「自己理解」を深めることの一環です。前回の記事にも書いた通り、先日、僕が唯一自分のセクシャリティをカミングアウトしているゲイの友人から、自分の世界を広げるには「自己理解と自己開示の力が必要」と言われて以降、そのことが今後しばらくの僕の目標になりました(お察しの通り、人に影響されやすい性格です苦笑)。
バイである僕にとって、自分が異性だけでなく同性にも惹かれる理由を考えることは、自身のアイデンティティを深く掘り下げることにも繋がる=自己理解の能力を高めることにも結びつくはず。
上手にまとめられるか少し不安ですが、お付き合いいただけると嬉しいです。

憧れと苦手意識の狭間で

実は昔から、僕は「男の子」が苦手でした。
タイトルに反したこの書き出しに、え?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは本当に正直な気持ちです。
より正確に表現するなら、「男の子」たちが集まった時の「ノリ」のようなものに苦手意識を感じていたのだと思います。
彼らが興味を持つ対象、笑うポイント、(僕からすると)少し乱暴な感じのするコミュニケーションの取り方、などなど。
うーん、これは僕にはついていけないぞ、と子供の頃から思っていた記憶があります。
「男の子」たちの輪の中に入る度に、自分だけルールを知らない世界に突然放り込まれたような、そんな「違和感」を覚えていたのです。

もちろん、「男の子」と一口に言っても、その中には色々なタイプの子がいます。
集団になると苦手でも、一対一で付き合ってみると、案外馬が合ったり、一緒にいてしっくりくる、居心地の良い性格の子もいることが、成長するにつれて少しずつ分かってくる。
そのことに気づいてからは、僕は慎重に彼ら一人ひとりの「人となり」を見極めるようにしながら、自分と似たタイプの男の子と友達になり、幼年期から思春期を過ごしてきました(そのうちの一人に、先述したゲイの友人が含まれていたことは、本当に奇跡に近い確率だったのだなぁ、と感慨深い気持ちになります)。

一方、「女の子」と一緒にいることは昔から好きでした。
話していて楽しいし、ユーモアのポイントも似ているし、コミュニケーションの取り方にも安心感がある。そして何より、彼女たちは同年代の「男の子」たちと比べて遥かに大人びて見えました。
初恋の相手は女の子だったし、その次に恋した子も女の子、そしてその次も…自己紹介記事にも書いた通り、これまで僕は男性とお付き合いしたこともありませんし、体の関係を持ったこともありません。
それなのに何故、これまで「男の子」=男性に惹かれ続けてきたのか。

基本的に、人間の抱く感情には、二面性があるものです。
僕は、「男の子」たちに苦手意識を持つ一方で、自分が持っていない「何か」を生まれつき備えている彼らに、憧れのようなものを抱いていたのだと思います。
僕自身は彼らの輪の奥に入り込むことはできないけれど、「男の子」たちの作り出す空気感には惹かれる。今思えば、「ノンケ男性」の魅力というものに、昔から気がついていたのかもしれません苦笑
根本的な苦手意識と、それ故の憧憬。
二律背反するこの感情が、バイセクシャルである自分を形成する根っこの一つになったのかなぁ、と今の僕は推察しています。

性的指向と心のねじれ

人は、自分と同質のものにも好意を持ちますが、その反面、自分とは全く異なる性質を持つ存在にも魅力を感じるものです。僕は、女性には高い共感性を示す一方、男性には「自分にはないもの」を見出す傾向が強いのだと感じます。
そして、その性格的傾向が、心では女性に惹かれ、性的にはより男性に魅力を覚えることに繋がっているのだと考えると、現在の自分のセクシャリティを上手に説明できるような気がするのです。

自分と異質であることが魅力に転じるのであれば、興味を持つ対象が違うことも、ユーモアのツボが異なることも、そして(自分にとっては)少し乱暴な感じのするコミュニケーションの取り方でさえも、全てひっくり返って、僕にとっては彼ら=男性に惹かれる理由になり得ます。
何故それが性的な回路と結びつくのかは謎ですが、恐らく、そうした理解できない部分や、自分が持っていない部分を備えている「男性」という存在に、「色気」のようなものを覚えているのだと思います。

自分でもかなりひねくれているなぁと感じるのですが苦笑、こうしたことが、主に僕のバイセクシャルとしてのアイデンティティの重要な位置を占めていることは確かです。そしてこの「性的指向と心のねじれ」こそが、僕の持つ最大の「悩みの種」でもあるのです。
それは何故か。
以前別の記事でも書いた気がしますが、この「ねじれ」がある以上、僕は永遠に、体と心を完全に満たすことができないからです。
しかし最近では、厄介なものを抱えこんでしまったなぁ…と思う一方、これこそが僕という人間なのだという、良い意味での「開き直り」ができるようになったこともまた、事実です。

性質は違うかもしれませんが、多かれ少なかれ、どんな方の人生にも、こうした「ねじれ」のようなものがあるのではないでしょうか?僕の場合は、たまたまそれがセクシャリティの部分に現れたというだけで、自分だけが不幸なのだという風にはなるべく思いたくない。
自分を特別視することは、とても辛いものです。
そして「客観性」を失うという面でも、ある意味、現時点での僕のテーマである「自己理解」の力を高めることとは真逆の方向に進むことになってしまいます。
自分自身のコアな部分を知ることはとても大切ですが、それをなるべくフラットに捉え、次のステップである「自己開示」に繋げたいと、今は考えている次第です。

自分の殻を破るために

以上が、現在の僕が考える、自分が男性に惹かれ続けてきた理由です。
書き始めていた時に考えていたよりも、意外とシンプルな回答だったことに、自分自身でびっくりしているのですが苦笑、書き終えたことで、一段階「自己理解」を深められたかなぁ、というのが率直な感想です。
やはりどんなことであれ、文章に書き出してみることは大切ですね…
自分でも気づいていなかったことや、体の奥に引っ込んでいたものがよく分かる。
そして何より素晴らしいのは、この記事を書くこと自体が「自己開示」の訓練にもなっていることです。

この年齢まで生きてきて本当に恥ずかしいのですが、僕はまだ、自分自身を覆っている殻を破り切れていないのではないかと感じています。
もちろん、奥さんや友人にカミングアウトできたことは間違いなく大きな成果ですが、まだまだ自分を抑圧している部分、解放し切れていない部分がたくさんある。
けれど、noteで記事を一つ書き上げる度に、その殻を破るための準備が、少しずつ整いつつあるのを感じています。
それを繰り返すことが、本当の意味で「自分の人生」を生きることに繋がっていくと、今は信じたい。

「自己理解」と「自己開示」の力を高めることは、あくまでも手段であり、その先にはより広い世界=人々と交流する、という目的があります。
そして、それを達成した時にこそ、本当に自分自身を覆う殻を破れたのだと実感できるのではないかという期待があるのです。
メンタル疾患による感情の波や、それによってコミュ障気味になっていることなどが、そんな自分の目標を常に邪魔しようとしてくるのですが、絶対に負けたくない。
そう考えながら、僕は毎日を過ごしています。

何だか本題から逸れてしまったような気もしますが苦笑、長くなってしまいましたので、今日はこの辺で終わりたいと思います。
もちろん、セクシャリティの他にも、自分を自分たらしめるものはたくさんあります。これからも、思考停止に陥ることなく、いろいろな側面から、「僕が僕である理由」を探し続けたいというのが、現時点での僕の結論です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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