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映画『ムーンライト』 何があっても、「魂の形」は変わらない


あらすじ

舞台は現代のマイアミ。母親と二人で貧困地域に暮らすシャイで無口な少年シャロン(アレックス・ヒバート)は、学校ではその性格や所作から「クィア(オカマ)」と呼ばれ、いじめの対象になっています。
ある日の下校途中、いじめっ子たちから逃れようと廃墟のアパートに隠れていたシャロンは、そこを縄張りにする薬(ドラッグ)の売人・フアン(マハーシャラ・アリ)と出逢います。
フアンは、何も話そうとしないシャロンに食事を奢った上で、仕方なく自分の家に連れ帰り、恋人のテレサ(ジャネル・モネイ)とともに彼の心を開こうと優しく接します。やがて、ようやく自分の住所を告げたシャロンを家に送り届けるフアンですが、母親ポーラ(ナオミ・ハリス)は、彼に対し警戒するような態度を取り、冷たく追い払います。
しかし、これをきっかけにシャロンはフアン、テレサとの親交を温めていくことになります。
一方、級友であるケヴィン(アンドレ・ホランド)は、唯一シャロンを対等な人間として扱ってくれ、彼らの間には徐々に友情が育まれていきます。
やがて、高校生になったシャロン(アシュトン・サンダース)は、ケヴィン(ジャハール・ジェローム)に対し恋心を抱くようになり、ある夜、二人は衝動的に性的な関係を持ちます。しかし、これが悲劇の始まりで…というのが大まかなストーリーです。

作品情報(ゆるめ)

2016年公開(日本公開は2017年)の作品。現在はアマプラやHuluなどで配信されています。
配給はかの有名な「A24」。監督はバリー・ジェンキンスというアフリカ系アメリカ人の監督で、本作も、現代アメリカの黒人社会における貧困や、ドラッグの問題、セクシャルマイノリティーに排他的な側面などを、痛々しいほどリアルに描いています。
ただ、ブルーを基調にした映像や、作品全体の雰囲気はあくまでも静謐で美しく、各批評サイトなどでも軒並み高い評価を獲得。
第89回アカデミー賞(2017年)では、「作品賞」を含む8部門にノミネートされ、最終的に「作品賞」、「助演男優賞」、「脚色賞」を受賞しました。
結果として、本作は、キャスト全員が黒人であり、かつ、LGBTのテーマを扱った映画としては初めてアカデミー「作品賞」を受賞した記念碑的な作品となったのです。
ちなみに、アカデミー賞授賞式では、「作品賞」発表の際、誤って同時にノミネートされていた『ラ・ラ・ランド』(2016)がコールされるというハプニングが起きたことはあまりにも有名です(…が、どうでも良い小ネタでした)。

「マイノリティー」の中の「マイノリティー」であるということ

本作の主人公であるシャロンは、黒人であり、ゲイでもあるという、二重のマイノリティー的背景を持った人物です。
作中では、黒人ばかりが暮らすスラム街が舞台となっているため、人種差別的な表現は出てきませんが、恐らくは日常的に差別を受けているであろう「貧しい黒人」というコミュニティーの中で、さらに「ゲイ」であることによって差別を受けるシャロンの姿は、観ていてとても痛々しい気持ちになります。
ちなみに僕も、中性的な言動などから「オカマ」と呼ばれからかわれた経験を持っているため、彼が同年代の少年たちから受け入れられず、いじめを受けるシーンでは、そんな自分の過去がフラッシュバックして、とても苦い感覚を味わいました。
(特に、少年たちが他愛もない遊び心から、自分の性器を見せ合って遊ぶシーンの居心地の悪さは、シャロンの気持ちが手に取るように分かり胸が痛くなります…)
また、本来であれば無償の愛を与えてくれ、彼の味方になってくれるはずの母親も、仕事の忙しさから徐々にドラッグに溺れるようになっていき、シャロンは徐々にネグレクト(育児放棄)のような状態に置かれていきます。
そんな八方塞がりな生活の中、唯一の救いになるのが、父親のような存在であるフアンや、テレサとの交流。そして級友ケヴィンとのやりとりです。
特に少年期のシャロンに、フアンが泳ぎを教えるシーンは、温かい気持ちになる一方で、どこか官能的な雰囲気も秘めた、非常に美しい場面となっています。
背景にあまりに悲しいものを背負っているからこそ、そうした一瞬の煌めきのようなものが、奇跡の如く映像に焼き付けられているのです。

変わる肉体と変わらない魂

本作は、ハリウッド映画でよく使われる言葉で言うと、いわゆる「三幕構成」になっており、「リトル」「シャロン」「ブラック」と題された三章に分かれています。
「リトル」と「ブラック」は、どちらも主人公シャロンの別名で、「リトル」は少年期のあだ名、そして「ブラック」は、彼とたった一度だけ性的関係を持つ級友ケヴィンだけが使うシャロンの愛称です。
章が変わるごとに、当然ながら演じる俳優も変わるのですが、この変化が見事というか、全く違う俳優が演じているため、確かに顔や背格好は変わっているのですが、彼らが同一人物であることがはっきりと分かる仕上がりになっています。
物語の中盤、第二章の思春期で起こるある事件をきっかけに、シャロンの人生も大きく変わり、第三章では、まるで別人のような姿になります。成人したシャロン=ブラックを演じるのは、トレバンテ・ローズという俳優さんなのですが、陸上競技の選手として活躍していたこともあり、筋肉ムキムキで、学校でいじめられていた幼い「リトル」の面影は微塵もありません。
(ちなみに映画の中では、彼の肉体美がとても官能的に撮られており、ゲイ的視線で見るとそこも本作の見どころの一つとなっています)
成長したシャロンは、過去に自分を救ってくれたフアン同様、薬の売人になっており、裏社会でのし上がっています。しかし、その鍛えられた肉体の中に潜む「繊細な魂」に変わりはないことが、画面を通じてひしひしと伝わってくるのです。
物語の最後、あるきっかけから、シャロンはかつて一度だけ性的関係を持ったケヴィンと再会します。ケヴィンは一度結婚し、子供をもうけたものの、現在では離婚して、小さなダイナーでシェフとして働いています。
ケヴィンの働くダイナーを訪れたシャロンは、なかなか現在の自分の状況を伝えずにいるのですが、そんなケヴィンに「ブラック、お前は一体何者なんだ?」と聞かれ、ただ一言こう答えます。
「俺は俺だ。ほかの誰でもない」
これこそが、シャロンという人間の、そしてこの映画の提示する答えでもあると僕は思いました。
人間はたとえどんなに辛い目に遭おうとも、どんなに見た目が変わって見えようとも、その「魂の形」は変わらないし、誰にも変えられないのです。
互いに歳を重ねたケヴィンと会話を続けるうち、二人は徐々に打ち解けていき、やがてシャロンはこう告白します。「俺に触れたのは、生涯でただ一人、お前だけだ」と。
そして、映画の最後の場面では、二人が無言で抱き合う姿が映し出された後、シャロンが「リトル」と呼ばれていた頃の姿に戻り、じっとこちらを見つめ返してくるシーンが挿入されるのです。

おわりに

この映画で描かれる表向きのストーリーは、逆境を乗り切るために変わらざるを得なかった一人の少年の成長物語なのですが、その一方で、僕は「変わらないもの」の美しさを見せられたような気がしました。
誰の中にも、そうした、ずっと昔から変わらない「核」のようなものが存在するのではないでしょうか?
そしてそれこそが、現実でどんなことが起ころうとも、誰にも汚されることのない大事なもののように思えてくるのです。
シャロンとケヴィンが交わしたただ一度きりの愛が、シャロンの心を厳しいリアルから守ってくれたように。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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