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文芸部は苦しみながら前のめりに生きる

世田谷学園文芸部のOBと顧問の対談企画です。
中高を文芸部で過ごしてきた経験がどんな逸材を生み出すのか、お楽しみください。
なお、今回の対談は、昨年2020年8月~12月にかけて行われました。

鵜川 はいどうも、始まりました文芸部OB対談。第3回目の今回は、知英くんに来ていただきました。それでは、軽く自己紹介を。

知英 卒業生の知英といいます。今は東京都立大学の数理科学コースに在籍している、大学四年生です(注:2020年時点)。大学院に進学予定で勉強を続けています。
 趣味は……ミュージシャンのジェフ・バックリィの研究と映画マトリックス関連のコレクションを増やすことでしょうか(笑)。
 よろしくお願いします。
 あ、そういえばオードリーのオールナイトニッポンを聴くことも趣味の一つでした。

音楽の聴き方とテクノロジー

鵜川 大学に入って、ますます音楽の趣味、渋くなってない? 聴く音楽って、どうやって選んでるの?

知英 その場で流れてた曲をShazamというアプリでこまめに検知させていくと、それなりにストックができます。クラブでも、ライブ前のSEでも、飲食店でも、少しでも気になる音源が流れてたらすぐに拾いにいきます。あとはたまにレコードショップ回るぐらいでしょうか。サブスクのおすすめに出たものだけだと、なかなか世界が広がっていかないんですよね。

 ちなみに、ジャンルは全く気にしていません。アツいな、ハートがあるなって感じたものは何でも聴きます

鵜川 音楽との出会い方って、時代ごとのテクノロジーにすごく影響される気がする。俺が学生の時(1990年代後半)は、ネットで調べるような環境はまだほとんどなくて、雑誌がメインの情報源だった。あとは、バンドサークルの先輩から教えてもらったり、友達がコピーしてる曲から知ったり、そんな感じ。
 日常で耳にする音楽を検索してストックに入れていくっていうのは、やったことなかったわ。そうすると、生活圏のサウンドスケープの捉え方自体が変わってきそう。より、BGM的に聞こえてくるというか。

知英 僕は周りに詳しい人とか、趣味が合う人がいなかったので基本的に自分で調べるしかなかったんです。その点調べる取っ掛かりとしてYouTubeはかなり重宝しました。
 そうやって手軽に音楽が手に入りますが、心地よく聴き流すのではなく、ストックしたものは後でしっかり聴くために手元においてあるんです。音楽の聴き心地を求めてるのではなくて、じっくりと思想を味わいたいので。
 でも世の中の人はBGMとして音楽を消費しますよね。その行き着いた先がspotifyやApple Musicであるわけで、作り手の想いなんかはひどく軽視されている。理解を深めるために、知識を拡充するためにサブスクは作られていないし、使う人もいないのが本当に残念です。いつからポップミュージックは消費物に成り下がったんだろう。

鵜川 それは難しい話だよね。音楽に限らず、文化って消費される側面が必ずあるから。
 一方で、鑑賞される機会そのものは、確実に減っていってるよね。その傾向を助長してきたのがテクノロジーであることは確かなんだろうな。データ配信、YouTube、そしてサブスクリプション……。アルバムを一枚の作品として捉える聴き方からは、どんどん遠ざかっている(僕自身、プログレ好き、特にコンセプト・アルバム好きなので、悲しいです)。
 でも、作り手の側はもっと柔軟にこの状況を活かしてる気がする。ライブやコンサートのパフォーマンスに力を入れている人たち、PVやアートワークでマルチメディア的な展開をしている人たち、自分のアーティスト像そのものを虚構的に構築している人たち……。
 サブスクの存在によって、曲を売るということのハードルが極限まで下げられているからこそ、それ以外のところに注力できている気もする。

知英 今の若いアーティストたちがiTunes世代ですから、アルバムという大きな単位がより消えていくことになると思います。
 作った一曲を展開して、音楽以外の面でもどう肉付けしていくかということに注力しているので、コンテンツとしては楽しめる面も増えましたが、逆に作家の素顔が見えない気もします。なんか、表に出るところは全部作り上げられていて、本心はどこで語られているんだろう?そう思うことが多々あります。

鵜川 なるほどね。知英君は、結構、作品と作り手を重ねて捉えてる感じなのね。
 僕は、その辺は結構割り切っていて、作品の〈内容〉(内面・深層も含めて)と〈形式〉(表面・外から分かる部分)を別個に考えてます。単純化して言うと、めちゃめちゃ深い〈内容〉のものを、商業的にヒットする〈形式〉に落とし込むこともできるし、取り立てて〈内容〉のないものを、一見すると難解な〈形式〉で飾り立てることも可能ということ。
 鑑賞する時の僕は、〈形式〉に惹かれることが多いので、実際に〈内容〉が深いかどうかは、度外視かな。〈内容〉って、実は鑑賞者の解釈と大きくかかわってくるから、必ずしも作られた段階で深くなくてもよくて、鑑賞者の捉え方次第で、いくらでも掘っていける。
 逆に創作する時の僕は、〈内容〉を可能な限り深めつつも、〈形式〉の部分ではなるべく深さが見えないようにしてる。まずは、聞いてもらう、読んでもらう、見てもらうことが第一で、そうしてくれる人が増えないことには、〈内容〉まで踏み込んでくれる人は出てこないかな、と思うので。

知英 だからプログレ好きなんですね。僕は技術的な側面よりも核となるアイデアが作家にあるかどうかを基準にしているので、そこが文藝部色にあまり染まらなかった理由なのかなあ。自分で作品を作るときも、これだけは絶対に譲れない、伝えたいと思ったことを形にしていくので、鑑賞者の解釈に委ねようと思ったことがほとんどないんです。僕が聞いてきたパンクやメタルの土壌を受け継いできた音楽って割とその志向が強い気がしていて。器用な人は違うんだろうけど、僕はどうしても想いが剥き出しになってしまうから、もうそれをぶつけてるだけなんです。そのせいで何かを発信するときには本当にいつも辛い思いをするのですが。

鵜川 文芸部はどちらかと言うと、知英君みたいな考え方の人が多いと思うけど。というか、僕がさっき言ったみたいな考え方って、世間的に見ても決して多くはないと思うよ。
 知英君もそうだと思うんだけど、結局のところ、動機がなければ創作しないし、創作し続けようとすれば、その動機なり想いなりの部分は強くないといけないし。
 去年、出場させてもらった「ブンゲイファイトクラブ」っていうイベントは、プロアマ入り混じっての短編小説のコンペだったんだけど、そこで知り合った人たちは、本当に想いの強い人ばかりで、書くのも読むのも全力投球。こういうメンタリティも、長く創作と向き合い続けるためには必要だよな、と改めて感じたよ。

知英 なるほど、そうですよね。

書くことと生きること

知英 そういえば、鵜川先生がブンゲイファイトクラブとか、ゲンロンの講座とか行き始めた理由って何でしたっけ?

鵜川 その二つの参加動機は別なのよ。
 「ゲンロンSF創作講座」は、2017年から翌年にかけて行われた第二期に参加しました。

 動機は、はっきり言っちゃうけど、作家デビューしたかったからだよ。これまでの人生で、それなりに長い期間と時間を掛けて書いてきたけど、一次選考にすら残らなかった。そんな状況を、どうにか打破したくて。
 これはあくまで僕に限った話として聞いてほしいんだけど、この年齢になってはっきり分かったのは、全力を絞り尽くした小説を書き続けようとした時に、趣味ではダメだったということ。教員の仕事があまりに忙しすぎて、冗談抜きで命を削らないと時間が作れないの。だから、作家としての自分を、教員としての自分以上のものにしないといけなかった。(って、ここでこんなこと言っちゃっていいのか? でも、教員の仕事は手を抜いてません。むしろ、今は新しい教育の仕組み作りが楽しい。)
 「ブンゲイファイトクラブ」は、どちらかと言うと、その後の僕の道の話よね。純粋に、イベントとして面白そうだったから参加して、幸いなことに本選に残った(注:2019年開催の第1回大会)。それで言えば、「SF創作講座」の効果は絶大でした。

知英 フルタイムで働いて、それで小説もプロになろうとしてて、そうやって先生の今までの努力してきた話を聞いていると、毎回僕少し泣きそうになるんですよ(笑)。ギリギリまで追い込んで、調整してる姿そのものがかっこいいとも思いますし、そういうことを僕たちに話してくれるのがすごい嬉しくて。
 なんか、あんまり自分からこういうこと話したくないけど、僕自身も割と真面目すぎるぐらいに頑張った場面が今までにもあったと思うんですよ。心を病むまで追い込んでしまうこともありましたし。それでも振り返ってみると何にも結果残せてなくて、本当につらくて、自分だけなんでこんなにも周囲から取り残されなくちゃいけないんだろうって、すごい思い悩みます。だから数学とか今自分が頑張ってることがあるって人に言うのがすごい恥ずかしくて。何も成果が出せてないし、今自分が頑張ってることを人に言いたくもないから、アピールするポイントもないし、自信ももちろんないし、余計に人と話したくなくなるんです。

鵜川 いやいやいや。成果っていうんだったら、僕の方がやばいって。小6から書いてきて、公募で言えば高2から出してきて、40過ぎるまで何にも引っ掛からなかったんだよ。今、たまたまうまくいっている感じだから、こんなことが言えてるだけで、この先はどうなるか分からない。また、箸にも棒にもかからなくなるかもしれないし、仮にプロになれたとして、どこかに発表し続けられるかも分からない(というか、新人賞獲った後、きちんと作品を発表し続けられている人の方が少ないんじゃないかな)。
 だから、さっきの話は、あくまで「30代も終わりに差し掛かった時に下した決断」として聞いてほしい。それまでは、小説を書いていないと精神的なバランスが保てないから書いてた、ってところが大きい。もちろん、好きで書いているんだけど、好きなだけだったら、他のことやってても全然いいはずなのよ。映画も音楽もゲームも好きだし、コントもやってて楽しかったし(知英君ともやったね)、バンド活動も力入れてた時期はあったし。でも、小説だけは、どうしても離れられなくて。書かなかった時期、書けなかった時期もあったけど、結局、数ヶ月すると戻ってくる。もちろん作家になりたいとはずっと思ってたけど、それ以上に、書くこと自体が、自分の手から作品が生まれること自体が、生きていることの実感に繋がってたんだと思う。
 要するに何が言いたいのかというと、成果なんて、年取って本当の意味で動けなくなる時まで、考えなくていいってこと。

苦しみながら前を向く

知英 うーん、でもねえ自分の軸となるものだけの話に限らないんですよ。僕だったら数学だけじゃなくて、日常のあらゆることでずっと負け続けてきたから。
 バンドだって、同期はみんな上達するのに僕は一向に上手くならない。バイトも接客業についたときなんか仕事中はずっと脳がパニックを起こし気味で、余計忙しく感じて慌ててミスも沢山して、緊張して笑顔とかも全然作れないし、もうしんどくてしんどくて。
 大学入ったらみんな大学デビューとかしてワイワイ楽しんでいつの間にか彼氏彼女できて一人前に青春するんですよ。彼女の前に僕は友だちいませんから(笑)。大学でも大した人数いないし、そもそも僕中高での友だち1人しかいなかったな。しかもそいつ途中で体調崩して学校来なくなっちゃったから、僕友だち0人になったんですよ(笑)。青春とか全く経験したことがない。
 人間関係ダメで、バイトもダメで、サークル(高校だと部活)もダメで、もう後やれる範囲だと勉強ぐらいしか残ってないですけど、それもダメ。四面楚歌の状況になって、追い詰められて高2ぐらいからうつ病に罹って、辛かった。あまり症状として知られてないかもしれませんが、とにかく思考力が下がりに下がって、全く授業もついていけなくなったし、それどころか字を読むのもやっとの状態でした。そんなんだから当たり前のように受験も失敗して、でもうちの高校はみんな勉強できるやつが集まってるから、当然のようにいい大学いくじゃないですか。なんで俺だけこんなにも何もかも負け続けなくちゃいけないんだろうって、そりゃ思いますよ。
 本当に何をやってもダメだったんですよね。
 いつもバカで学力が低くて、頭が悪くて、ドジで、のろまで、引っ込み思案で、熱中できるものなんかなくて、自分を奮い立たせる気力どころか生きる気力もなくて、世の中の全てが憎くて、なんで俺は生きてるんだろう、生きなきゃいけないんだろうかって。誰と比べても秀でてるものなんて一つもありませんでした。

鵜川 なんか、もしかすると、ちょっと僕に似てるかも。
 僕は周りからあまり褒められずに育ったので、自分のことを大したことないと、ずっと思っていて(今でも)。子どもの頃から、絵を描いたり、小説書いたり、もちろん勉強したりしながら、誰かに評価されたいとは考えていたと思うんだけど、気持ちを外に向けると無視された時に辛いから、内に内に籠ってた。
 知英君のことは、在学中は器用だなと思って見てたよ。勉強も小説も、音楽も演技も、どれもうまくこなしていて。そのうち、自分にとっての「これだ!」っていうのを見つけて、磨いていくんだろうな、と漠然と思ってた。
 だから、まだ「これだ!」っていうのが決まってないだけなんじゃないかな。それまでは、全部、誰かに負けるものばっかりでいいと思う。僕も器用貧乏だけど、全部、誰かに負け続けてきて、三十年経ってようやく小説が日の目を見ているっていうだけの話なんだから(三十年待て、ってことじゃないよ! 普通は、そんなにかからないって)。
 ただ、今あらためて自分を振り返ってみると、新しい出会いを求めることが重要だったかなと思う。高校まで内向的だった僕が、大学以降、気持ちを外に向けられてきたのって、他人の力だったから。大学でそれが分かったから、仕事するようになってからも、新しい出会いを積極的に得ようとしてきた。生徒とバンドやったり、卒業生の通う大学に顔出したり、mixiでセッションに参加したり、大学の公開講義に参加したり……。SF創作講座も、ブンゲイファイトクラブも、その延長です。僕は人見知りなんだけど、一対一の場じゃなければ、誰かが話しかけてくれたし。ほんと、いろんな人に助けられました。もちろん、うまくいったことばかりじゃないけどね。

知英 見つかるかなあ。楽しいと思えるのは歌かなあ。最初下手すぎて辛かったけど、少しコツ掴むと、声が自分の体に響くのがほんとに気分良くなって、練習してること自体が楽しいです。
 面白いと思えるのは、物事を根拠立てて説明する、もしくは数学の証明をする際の、論理を構築する作業そのものと、自分の思ってることを形にする作曲という作業そのものでしょうか。まあ全部半人前以下だからあんまりやってることを人に言いたくないですけど……それでもこんなことやってますって自分から色々なコミュニティに出していくしかないのか?
 辛いなあ、いちいち自分が無能だって宣言しなくちゃいけないことが。本当に何もないんだから。僕は何も持ってない。人の倍努力して人の出来の半分以下。生きてることが恥ずかしいぐらい。

鵜川 自分に厳しすぎる気がするけどなあ。「人の倍努力して人の出来の半分以下」って言うけど、「人の倍努力」できることの方が、ずっと価値があると思う。
 「努力」で思い出したのは、『ちはやふる』っていう競技かるたを描いた漫画・アニメ作品の中のセリフ(この作品、めっちゃ好きなんよ)。
「……でもおれは 仲間にするなら かるたの“天才”より 畳の上で努力し続けられるやつがいい」
 文脈がないとよく分からないかもしれないけど、「出来」が「半分以下」だろうが「無能」だろうが、それは知英君の価値を貶めることにはならないってこと。もちろん、「出来」や「成果」しか見ない人もいるけど、みんながみんな、そうなわけじゃない。
 って言った後で考えてみたけど、僕の周りには「出来」や「成果」で人を評価してるような人はいないな。恵まれているか、鈍感か……どちらかだな、こりゃ。

知英 やっぱ、よく分からないです。僕、自分に途中点がつけられないというか。0か100かでしか見られないところがあると思います。大体これでいいやとか合格とかないんです。一点の曇りでもあったら0点なんですよ。だから自分に対して満足なんてものはないし、そもそも何も納得いったことなんかない(多分これが余計に自分を辛くさせてる)。自分に対しては常に0点という評価です。
 心には少しでも出来たことがあれば「一つできたね」と栄養を与えた方がいいのでしょうが、今までそれを全くしてきませんでした。自分で自分の学習性無力感を養ってしまった感じですね。

鵜川 栄養! そうそう! まさにその通りよ。
 点数は「出来」に対して与えるものでしょ? でも、そもそも何もできていなければ、0点すらつかない。0点は「無」じゃなくて、「一つできた」ことの証明なんだから。
 てゆーか、完璧主義なのね。潔癖なのね。だとしたら、つらくて当たり前な気がするな。それでも前に進み続けてるんだから、やっぱりすごいことだと思うよ。どこかで立ち止まったり、投げ出してしまったりしてしまうのが普通だと思うもの。

知英 自分の思ってることを少しずつ言語化できるようになってきたので、こうやって共感して頂けることが増えてきました。なんか安心しますね。

数学と多様化する学び

鵜川 せっかくだから、数学の話が聞きたいな。

知英 今私が勉強したいのは、代数幾何です。これは連立方程式の解集合を研究する分野で、例えば、xy平面において、関数y=xのグラフは原点Oを通り、x軸との角度が45度の直線ですが、これを式変形したとき、多項式x-yが値0を取る点の集合と捉えなおすことができます。さらに関数y=-x、したがって多項式x+yを考えると、今挙げた二つの関数のグラフは原点Oでのみ交わっています。ここで今私たちが考えるべき対象は点(0,0)ですが、このように連立方程式の解を図形として捉えて考察することが目標です。先程「勉強したいのは」と述べたのは、私がその前段階の、代数幾何を記述するための言語でもある、圏論というものを特に勉強しているからです。

鵜川 圏論! 最近、人間の認知とか知能について調べてる時に、いくつかの論文で目にしたけど、結局よく分からなかったんだよね……。基礎的な数学の知識が、決定的に欠けてるんだんと思うんだけど。

知英 あ〜、丸山先生とかかな? 圏論で人間の意識を理解しようとか、色々やってたと思う。で、圏論って数学の中でもかなり抽象的な概念を取り扱っていると思うんです。だから圏論で登場する定義だけを読んでみてもわからないはずです。とにかく具体例をつけていく作業が必要で、そのためには私がやっているような代数のバックグラウンドがないとなかなか厳しいと思うんですよね……原理的には圏論は予備知識が要らないって言われたりするんですが、大学数学をやってこなかった人が圏で出てくる新概念を次々受け入れていくのはハードルが高いように思えます。

鵜川 うあ……。なるほどですわ。そもそも、大学で専攻する数学って、高校までで学習する数学とは別物なのかな?

知英 高校数学と大学数学が断絶されているわけではありません。取り扱うものが簡単にはイメージできないもの(例えば高次元の空間)や非自明なものが増えてくるから、数学科数学では論理を確実に詰めていく必要があります。そこですかね、違うのは。でも、高校数学も本当は論理のトレーニングになる良い舞台なんですけどね。

鵜川 「簡単にはイメージできないもの」か! そこなんだよね。めっちゃ惹かれるけど、簡単には入りこめないところは。素人なりに感じるのは、世界を裏側から眺めているような感覚っていうのかな。伏字にしてもわりとネタバレになっちゃうんだけど、映画「インターステラー」で主人公のクーパーが、◯◯の裏側から世界を見てるシーンがあるじゃない? あんな感じを想像してます。

 そんな風に思うようになったのは、だいぶ昔なのでディテールはすっかり忘れちゃったんだけど、数学者の人が答えてたインタビューだか何だかがきっかけです。その中で、数学者は高次元の空間を直観的に認識している、みたいな話があって、「すごいっ!」てなったのよ。
 最近は、素人にも分かった気にさせてくれるような教育系ユーチューバーの方が増えたので、気分だけ味わってます。

知英 僕も教育系YouTuber、特に数学系の人はよく見ますね〜 実際に理解しようとしたら本当に手を動かして勉強しないといけないけど、式や定理の気持ちを知るのも大事ですから、「こういうモチベーションで、こういうことが言いたいんだよ」って分かってる人が解説してくれると嬉しいですね。他業種の人や高校生も参入してくれたり、今後も活発になっていってほしいです。YouTubeだけでなく、結城浩さんの書籍とか、グレブナー基底大好きbotとか、色んな数学が好きな人たちの活動のおかげで、今数学の敷居が下がりつつあると思います。

鵜川 そうなんだよね。そして、そういう動画やら本やらを見たり読んだりする人たちも、すごく広がっているみたいで。
 例えば、「ヨビノリたくみ」さんが「文科省で講演してきました【YouTubeによる教育と研究の橋渡し】」という動画の中で、2020年2月現在での視聴者層について話をしているんだけど、メインターゲットにしている大学院・大学院生が40%である一方、社会人が40%、中高生が20%も視聴してるっていうのよ。

 もちろん、数学の知識が必要とされる場面や領域が、かつてよりも増えているということはあると思うのよ。でも、それだけじゃないとも思うんだ。学びの現場が、学校のような場所から切り離されることで、かえって学ぶという行為に対するモチベーションが上がっているんじゃないかな、と。

知英 能動的に、知りたいことが勉強できますよね。学校は系統的に学べるよう授業が構成されてますが、動機が不明瞭なことがほとんどです。いいから黙ってやれやって感じです。たくみさんの授業は、やってることの動機が分かります。なぜそういう概念が必要で、なぜその変形をして、と、論理展開含め、考えの流れが掴めるところが一段違うところだと思います。何か一つ興味のあることを軸にディグっていって、知らないことがあれば他の本なり動画なりで補完していくっていうやり方も悪くないと思うんです。その分野のオタクって異常な量の知識を持ってることが多々ありますが、彼らってそういう学び方してますよね。

鵜川 そうね。普通の人が気にしないようなところにつながりを見つけて、その糸を手繰っていく。例えば映画なら、監督だったり脚本だったり映像表現だったり。あるいは、作品の中に隠された意匠や、先行作へのオマージュだったり。この辺って、多かれ少なかれ、好きなことに対してはやってると思うんだ。それを、勉強にも発揮すればいいじゃん、っていう。
 学校の役割はどんどん変わっていくと思う。勉強の仕方を身につけ、学んだことを共有し、それを組み合わせて考える。知識は、記憶するより、アクセス方法を手に入れる方が重要。うろ覚えでも、教科書を開いて探せればいい。キーワードを入れて、検索できればいい。その過程で、知識は自然と身についていくもの。(知識がなくてもいい、とはならない。そもそも、知識が増えないと、適切な検索ワードが得られないし、検索結果を正しく読むこともできない。)
 動機のデザインは、本当に難しいです。瞬間的にこちらを向かせるのは簡単(雑談で関心を惹いたり、怒鳴ってビビらせたり)だけど、それじゃあ、自分から勉強するようにはならない。あるいは、定期テストや受験で勉強に向かせても、それが終わったら勉強から離れていく。テストはあくまで学習方法であって、どこまで行っても目的にはならない。

知英 まあなんか、つい勉強の話をしてしまいましたが、勉強……しなくていいと思いますけどね。面白いと思うことをやってほしいです。
 動機こそ、自分で作ってくれという感じです。その後の手伝いは出来るだけするので。面白いことがなくても全然良いとも思います。結構本気で取り組んでみないと、これだ!っていうものは見えてこない。

鵜川 まあ、難しいところよね。僕は教師なので、可能な限り手を差し伸べたいし、本気で取り組むところまでの道案内なり手助けなりをしたい。僕の担当する国語は、どっちかというと実技教科だから、学ぶこと全般に対する意欲や価値観に関わってくるので、責任重大だなと思いながら、いろんな工夫をしています。生徒は、全然そんな風には見てないと思うけどね。

知英 先日教育実習に行ったのですが、国語科と社会科の先生はそういういったお話をされてました。僕が派遣された学校の数学科では、何のために数学を教えてるのか、よくわかってない教員が多かった。これを伝えたいんだ、という信念を持って教えてる人がいないように思えました。
 数学は目的を明確にした上で、建設的に逆算をして論理を組み立てる学問です。だから、説明者、授業者は、今日は何をやるか、を明確に書き出さなくてはいけない。だけど、まずそこがぼやけてる人が多かった。「方程式の解き方について、『考えよう』」とか、「グラフの特徴を『調べよう』」とかって書き方をするんですよ。結果を得るだけでなく、考察するということが目標なのだろうと、我々は推察できるけど、生徒側からしたらそれって何に向かって勉強すればいいのか、すごくわかりにくいと思う。それだったら、結果を得て、その上で考察しようって宣言してやらないと、生徒はアプローチできない。しかも数学で得た結果を考察するなんて、かなり難しいことなんですよ。数学科の学部生でさえなかなかできないことなのに。細かい話をしてるようですが、この目標設定こそが大事なはずです。教員は、解くことが目的なんじゃなくて、考えた過程が大事、と主張します。でも数学って結果が残せないと意味が希薄になるはずです。それは、数学には明確な答えがあるからです。価値判断などの、確実に正しいと言える答えがないような問題にアプローチしてるわけではないからです。
 しかも、酷いのが、なぜ考える過程にそんなに主眼を置くのかと教員に聞けば、それは時代がそういう時代だからっていうんですよ。時代は教育の根拠にならない。現代に即しただけの人を作ろうとすれば、その人間は未来には不必要なものになります。そもそも、そういう人って数学の良さを大して分かってないと思うんですよね。社会問題の解決に数学が応用されてるから、数学が必要で学ばなきゃいけないんじゃなくて、それ以前に、数学の論証作業や、発想の豊かさや、抽象化する作業が面白いんだってことを伝えなきゃ。その気持ちがあれば時代に即した、なんていう馬鹿げた言葉は絶対に口から出てこない。

鵜川 学校で学ぶことの意味を考え直すにあたって、極端なまでの正解主義を推し進めてきた過去への反省からか、正解を求めることから離れて、正解に至る過程に重点を置こうとしている節が(一部の学校や教師には)あるんだよね。もちろん、社会的・時代的な要請から、主体的に学ぶことや、自ら問いを発見することの意味が教育界全体で見直されているわけだけれど、これは本質的には正解か過程か、という話ではない。
 僕自身は、既にある理論や学問を学ぶのは、ものの見方を身につけることだと考えていて。この話をする時、僕は必ずナイチンゲールのことを思い出すんだけど、彼女は、病院の環境や患者・死亡者のデータを統計的に解析することで、当時の常識を覆して、医療現場に衛生観念を持ちこんだ。それは彼女に数学や統計学の正しい知識があったから可能だったわけです。ついでに言うと、時代も関係ない。この話は、今から150年以上前のクリミア戦争での出来事です。
 ここから分かるのは、知英君の言葉を借りれば、「数学の論証作業や、発想の豊かさや、抽象化する作業」を身につけるのが先で、「考える過程」はその後、ってこと。もちろん、教えるにあたっての興味喚起に「過程」を織り込むのはありかもしれないけれど、それを目的化されると、ちょっとね。それって、国語で言えば、哲学的な概念を学ぶ過程ばかりを重視して、その考え方の面白さや使い方にたどり着かない、みたいな話だよね。完全に、本末転倒でしょう。時代の要請から言っても、趣旨を取り違えていると言わざるを得ない。

変わりゆく生徒像?

知英 なんか、前述したような考えの教員が上の立場にいることが多かったので、実習行って改めて失望した感じです。わかってはいたのですが。
 それと、もう一つ大きな不満があります。大半の教員が生徒のことを、できる/できない子と分別して二元的な生徒観を持っていたことです。これはかなりショックでした。まず生徒がそんな目で見られていると知ってしまった日には傷つくでしょう。何様のつもりだよって感じです。また、数学のテストの点数や、機転が効くことや、運動神経の良さは、能力の有無を示していません。あくまでもその子がどれほど学校教育を吸収できる体を持っているかという指標にすぎない。テストの点数が悪くても独自の視点や柔軟な発想力を持っていたり、他人からのアドバイスを聞き入れる要領がなくても、自己解決能力が高い子は絶対にいます。その場ですぐに解決できる瞬発力がなくても、粘り強く考え続ける体力がある子だっています。そういう持ち味に気づかずして何を指導できるのでしょうか。アクティブラーニングとか、主体性とか言ってるくせに結局生徒を信用してないんですよ。酷い教員なんて「あいつらバカだから」って言ってて。ほんとに何を偉そうにモノを言ってるんだろう。確かに、授業運営をする点で、瞬発力のある子に目をつけておいて、その子たちの力を借りて上手く対話的な進め方をするというのは分かります。でもだからってそうじゃない子を能力がない、使えないみたいに見るのは違うでしょうよ。ただの持ち味なんだから、っていう話です。

鵜川 なんだか、大変だったみたいね。(生徒の状況も教員の対応も、一般化して話すことができないので、それ以外に何も言えない……(苦笑))
 ただ、一点だけ伝えておかなきゃいけないと思ったのは、日本の教育が、今、本当の意味で変わろうとしている過渡期だということ。明治期から始まった近代教育の流れの中で、本当の意味での転換点が、初めて訪れているということ。何世代も反復されて強化されてきた教育観(それはもちろん学校だけでなく、家庭や地域や会社をはじめとした、社会のあらゆる組織の中で共有されてきた)が、少しずつ崩れて、新しいそれに取って代わろうとしているということ。
 ただ、これだけ浸透している教育観・人間観が、五年や十年で変わるわけがない、というのもまた現実。だからこそ、僕自身はその変化の最前線に身を置きたいし、何だったら、真っ先に古い価値観を置き去りにして、とっとと次のステージに行きたい。時代遅れは後から慌ててついて来ればって感じです。
 幸い、世田谷学園には志を同じくする先生たちがたくさんいるので、新しいことには挑戦しやすいです(めっちゃ大変だけど)。ただ、教員間でこの価値観を共有していても、実は生徒自身がそういう新しい学びの在り方に懐疑的な場合も多くて。学校でどれだけアクティブラーニングを取り入れていても、生徒自身は塾や予備校で与えられた課題の方にどっぷり浸かってしまっているケースが多い。まあ、生徒にしてみれば、そっちの方が楽だし、分かりやすい成果も得られるしね(だからこそ、変わりつつあるのだけれど)。なかなかもどかしいです。

知英 変わってほしいですね。教育って誰しもが経験することだから、誰でも語れるものだと思っています。生徒も保護者も、塾と普段の学校のどちらにも通うというダブルスクールのような状況に無駄を覚えたり、疑問を持っているはずです。これをただの違和感なんて言葉で済まんすんじゃなくて、現状に向き合って、現場にいる人全員、つまり教員、生徒、保護者で議論してほしいです。労力がいるのは承知していますが、この問題はなあなあにして欲しくないです。生徒は教育を受けるプロです。学生をもっと信頼して、意見を汲み取ってほしい。それを整理するのも大人の仕事でしょう。

鵜川 そういう部分もあると思いますが、その大人の仕事にどれだけ生徒を関わらせられるか、というのも、これからは考えていくべきでは、とも思います。自分たちの学びを自分たちでデザインする。それを実現するために教員が動く、なんていう場面も今後、増えていくと思います(すでに、ちらほら出てきていますよ)。
 ということで、かなりコアな話になりましたが、知英君の熱い思いも伝わったのではないかと思います。今後もお互い、苦しみながら前のめりに生きていきましょう。ありがとうございました。

知英
鵜川 龍史(文芸部顧問/小説家)

Photo by Akshar Dave 🪁 on Unsplash

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