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「でっちあげ」を読んだ。。。

この本はノンフィクション作品で、漫画化もされているようである。

内容は「史上最悪の暴力教師」としてマスコミ報道された事件についての真相を追ったものである。

どんなひどい教師なのかと読み始める。次第に真相が明らかになるにつれ、実はモンスターペアレンツによる虚偽虚言であることが分かってくる。

読み進めるにつれ、何とも言えない嫌な気分になる。
関係者の言動・行動に、不愉快で胸くそ悪い気分が、積みあがってゆく。
しかも、真相が次第に明らかになっていくのに、最後までスカッとしない。
なんと表現すればよいのだろうか、無性に苛立ち、ムカつく。
この思いの理由は、いったい何だろうか。。。

一つは、「人々があまりにも安易に『情報』を鵜呑みにする」ことである。
そもそも自分自身が、この本のタイトルや序章を読んだ時点で、自動的に「暴力教師像」が頭に浮かび、それに対する「憤る感情」が生じた。
たぶん、教師という「強者」と、生徒という「弱者」の構図が、勝手に「先入観」を作り上げるのだ。そしてその「感情」が生じた時点で、理性的な判断など「一蹴」されてしまうのだ。

この作品の中で、学校関係者・マスコミ・医療関係者・弁護団のすべてが、この虚偽虚言に簡単に踊らされる。

学校の校長・教頭は、この事件が発覚した時点から「暴力教師の問題行動」として、バイアスがかかる。それは「保護者」に対しての強烈な「苦手意識」や、世間に不祥事が発覚したらという「恐怖心」がそうさせるのかもしれない。彼らは事実関係の精査などより「早期に穏便に収める」ことだけが目的となる。暴力教師とされた本人さえ、その「穏便に収める」というバイアスに引きずられ、真実を強く主張することをためらってしまう。
また、マスコミも十分な裏付けを確認することなしに報道を始める。彼らはここぞとばかりに正義を振りかざし主張する(いつものことだ)。事実関係などよりも、センセーショナルな事件として聴衆の感情をあおる。
医療関係者は「子供が精神的な暴力を受けた」との親の主張とマスコミ報道の影響から、安易にPDSDとの診断を下してしまう。
さらに弁護士たちもマスコミ報道を妄信しているとしか思えない。いまこそ「社会正義を発揮すべき」とでも言うように、大弁護団が組織される。

私がもう一つ憤る理由は、学校関係者・マスコミ・医療関係者・弁護団が、真相が明らかになってゆく中で、本来あるべき倫理的・道徳的な「誠実さ」としての「説明」や「謝罪」が一切ないことである。彼らは、人として「誠実であること」よりも「立場に忠実であること」で自分をごまかしている。

これは、「失敗してはいけない」という日本社会に深く根ざした問題なのだろうか。日本社会は失敗に対して「不寛容」だ。失敗者に対する風当たりは非常に厳しく、二度と再起できないといっても過言ではない。

校長も教頭も教育委員会も、自分たちの立場を守るために、裁判での判決が確定しない限り、この事件での教師に対する処分について、自分たちの調査不足や判断ミスで誤った処分をしたなどとの謝罪は、最後まで決してすることはなかった。
それはマスコミも同じだ。彼らは事件を大々的に報じたが、真相が明らかになるにつれ、その事件からそっと「フェードアウト」するだけで、事件の最終結末までを責任をもって報道しない。マスコミは「報道の自由」や「言論の自由」については高々と主張するのに、彼らがその権利に対する当然負うべき責務についてはまったく果たしておらず、完全にそれから逃避する。
弁護士も「社会正義を実現する」との理想は素晴らしいが、現実は被告人や自分自身の立場や利益を守ろうとすることに終始するばかりで、どう見ても社会正義を貫こうとの理想には、程遠い。

さらに驚かされるのは、モンスターペアレンツの言動・行動である。裁判で虚偽に対する明確な証拠が提示されようと、彼らは決してひるまない。どれほど論理的に破綻していても、それに対する弁解・説明などするつもりもなく、とにかく自分たちの言い分を主張するばかりである。たとえそれが子供を無理やり病気に仕立て上げることになり、子供自身の人生すら捻じ曲げてしまったとしてもだ。これは、SNSでの暴言や炎上などと同様のことなのであろうか。

「恫喝・暴言・挑発・敵意」などの「感情」に直接作用する事象に、人々の「理性」はひとたまりもない。人々は敏感に反応し燃え上がる。心臓は高鳴り血圧が上昇する。つまり、アドレナリンとノルアドレナリンが脳内を満たすのだ。そして身体は攻撃態勢を整え、攻撃を開始する。

それは本能であり、仕方のないことなのかもしれない。しかしそれは、未熟なことでもある。人は多くのことを経験し成熟することにより、「感情」の前に「理性的」に行動する術を持たなければならない。

そしてまた、自分の攻撃が間違っていたことに気付いた時、振り下ろしてしまった拳の責任について、どのように行動するかで人としての「在り方」「尊厳」が決まる。自分の「立場を貫く」素振りをしても、彼が「誠実」であろうとしていなければ、それはただの「ごまかし」であり、自分の利益を
守ろうとしているだけのことである。

我々はこのなんともおぞましい状況を回避することはできるのか。
我々はこの社会に対し「慄く」ほか無いのであろうか。

いずれにしても、是非一読してみては如何か。

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