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「慣れる」の大事と厄介

「慣れる」これはすごく大事なことだと思います。慣れるために反復練習を行い自分の体に染み込ませるなど多くのトレーニングの結果としてそこに「慣れ」を作っていきます。

しかし、この「慣れ」というのは、諸刃の剣というか表裏一体というか、大事でありながら厄介な部分もあるのです。今日はその両面について書いてみます。

「慣れ」は大事

例えば僕は今日もnoteを書いています。これはそろそろ「慣れ」になってきている状況です。なかなか頭の中を整理するというのは難しいものですが、整理することをこのnoteという媒体を使って僕は「慣れ」てきているように思います。アウトプットといってもいいかもしれません。

「慣れる」ことでそれが特別に構えることもなくできるようになる。これは素晴らしいことですし、賜物だと思っています。普通では少し構えてしまうようなことを、無意識に「慣れ」た状態で、いわばこなすことができればそれ以上のものを生み出したり対応したりすることができます。

つまり「慣れ」は次を生み出す力があるのです。

言葉遊びでイメージすれば、

「成れ」という意味での「慣れ」

ですかね。

「慣れ」は厄介

しかし、不思議ですが「慣れ」はダレてしまうことへ繋がることがあります。緊張感が途切れるというのでしょうか、「慣れ」の影響で悪い意味で安定していきます。とても不思議なもので、構えることもなくできてしまうことによって、妙な安心をえて「慣れ」は徐々にダレへ変化することもあります。気をつけなればなりませんね。

視点が少し変わりますが、例えばWebサイトのリニューアルなどで一番の敵は「慣れ」です。たとえ、ユーザー操作的によくないサイトであってもそれがずーっと使われていたら、人は「慣れ」ています。仮にすごく使い勝手のいいものを実装したとしても「慣れ」が邪魔をして、

あれ?昨日までここにあったボタンがない=使いにくい!

となるのです。非常に「慣れ」というのは厄介です。

言葉遊びでイメージすれば、

「馴れ馴れしい」に近い「慣れ」

でしょうか・・・。

大事と厄介の間

先ほどの使用感という部分での「慣れ」は少し置いておいて、「慣れ」が大事な時と厄介な時の間にあるものはなんでしょうか?それは、ベタな言い方ですが、「向上心」とかいうものに近いものじゃないかと思うのです。

「慣れ」の先にある何かを目指すために、「慣れ」るというマインドを持っているかどうかそこが大きな分かれ道のように思います。

「馴れ」よりも「成れ」な「慣れ」

ちょっとよくわからなくなりましたね・・笑


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