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知ること、学ぶことが偉大だ

知らないということが、どんなに怖いことか。
私は知らなかった。

「知らないから仕方がなかった」
その言葉は、時には残酷でもある。

2000年前もそうだった。

イエス・キリストがなぜ十字架にかかるようになったのか、あまり知る人はいないだろう。

私もそうだった。

十字架を背負うために生まれたという人もいる。

果たしてそうだろうか。

彼は生まれて死ぬまでの33年間の間で、
たったの3年半しか御言葉を伝えられなかった。
もし十字架を背負うために生まれたならば、すぐに十字架にかかればよかっただろう。

でも、そうしないで彼がしたことは、
神様の愛を実践し、神様の愛を叫び伝えることだった。

当時、病気の人も、女性も人間扱いされず、虐げられていた人たちに、彼は近づき、神様の愛を伝えた。

それによって病気の人は癒され、女性も女性としての権威を放つようになった。

それでも時代が女性を男性と同じように接したのはつい最近のことだ。

そう思えば2000年前から平等に接した彼は、
どれほど真だったか。

彼はなぜ死んだだろうか?

「無知」によって死んだ。

その時代、もっともメシアを待ち望んでいたその人たちは、誰だったか。

とてつもなく待ったその人たちは、その時代もっとも神様を信じている最先端の信仰者たちだったのに、

最高に待ち望んでいたその方を
十字架にかけてしまった。

待った期間は実に4000年間だ。

熱心に神様を「信じて」はいたけれども、
神様のことを「知らなくて」そうしたのだ。

神様が直接来ると思って待っていたけれども、
人間として現れたから信じられなかったし、
イエスが田舎の青年だったから信じられなかった。

でも、彼らが最高に信じていたモーセだって人間だった。

聖書を見れば神様は必ず
「人を通して現れた」

ノア、アブラハム、ヨシュア、ダビデ、エリヤなど多くの預言者たち。

人を通して神様は歴史を進めていたけれども、
分からなかったのだ。
直接来ると思ったけれど、
神様の方法は違ったのだ。

ここには多くの教訓がある。

悪口を言った相手が、自分を敵から守り、助ける存在だったのに、知らないで殺してしまった。

「知らなかったから仕方がなかった」

そう話すにしては、無念すぎるだろう。

知らないままでいないで、
知識、知恵を学ぼう。

学んだら、分かるようになる。
学ぶこと、知ることはとても大切なことだ。

学んだら、目が開いて遠くまで見えるように、見通せる。その分野、センターごとにそうだろう。
全てが分かるから全知全能とまで呼ばれる。

知ること、学ぶことが偉大だ。

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