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小説 銀河売り~困ったら売りなさい

銀河売り。
目の前の畳に置かれた白い桐箱の蓋には、鮮やかな黒の墨で、そう書かれていた。
開け放った窓の外、縁側の向こうから、春を迎える肌寒い風に乗って梅の香りが漂ってくる。

私は、桐箱をつくづく眺めた。
正確には、もう少し文字がたくさんある。
蓋の右肩には「曜変天目茶碗」。そして左下に「銘  銀河売り」とある。

「開けてごらん」
正面に正座して、曲がった背中を限界までピンと伸ばしたおばあちゃんが、右手で私を促した。

両手でそっと、桐箱の蓋を開ける。少し、キシッと抵抗があった。箱と蓋がぴったり作られた証拠だ。蓋は右側に丁寧に置く。
と、中から現れたのは、またも、木の箱だ。今度は年期が入った艶々の、濃い茶色の木箱だ。蓋に何か書いてあるが、もう墨痕がかすれて読み取れない。
そうっと茶色の箱を取り出し、桐箱の左側に置く。
空の桐箱を右側によけて、茶色の木箱を膝前正面に置き、再び両手でそっと蓋を持ち上げる。
すると、今度は、古びた黄色の布が現れた。防虫効果があるウコン染めの木綿の布だ。どうやら、箱の中身はよほど貴重なもののようだ。
黄色の布をそっとめくると、朱色の紐で結ばれた錦の袋である仕覆が顔を出す。時を経た繊細な裂地に刺激を与えないよう、そろそろと箱の中から持ち上げる。
紺の地色に、銀の糸で六角形の星形が整然と織り込まれた、珍しい錦だ。
膝の前に取り込み、優しく優しく紐をほどく。錦の袋の口を広げると……

厳重に幾重にも包まれていたのは、真っ黒な茶碗だった。
ご飯茶碗に似たシルエットで、口のところが一重くびれている。天目茶碗の典型的な形だ。
かなり長い期間、ほったらかされたと見えて、黒の色はかさついて艶がない。
箱には「曜変天目」とあるが、手の中の茶碗には、曜変天目らしい模様が一つもなかった。

私は、おばあちゃんに恐る恐る言った。
「これ、箱と中身が合ってないよね……偽物ってことは……」

「本物だよ」
おばあちゃんがぴしゃりと被せてくる。曲がった背に似合わない、びんと張りのあるいつもの声だ。
おばあちゃんは、垂れた瞼の下のきらきら光る瞳で、まっすぐ私を見据えた。
「これは、我が家に代々伝わる家宝の曜変天目茶碗、銀河売りだ。これからはお前に託すから、大切にしなさい。そして」

おばあちゃんの右目の目尻から、きらっと光る透明な涙の筋が頬を伝う。
「本当に困ったときは、これを売りなさい」

そう言って、おばあちゃんは、箱の底から古びた和紙を取り出した。
折りたたまれたそれを丁寧に開き、私に手渡す。

くずし字で読めない漢字だらけの文章の最後に、取って付けたように、恐らく元の文章が書かれてからかなり時間がたってから書き加えられたとみられる一文があった。
「真ニ困窮セシ時ハ我ヲ売レ」

おばあちゃんはその日の午後、遠い都会の緩和ケア病棟に入院した。
末期ガンの余命が尽きたのは、それから1ヶ月もしない満月の夜だった。
両親を事故で亡くして以来、私を優しく厳しく育ててくれたおばあちゃんは、私の大学合格を見届けて、月に帰った。

私は、天涯孤独になった。

奨学金で学費をまかない、アルバイトに明け暮れて、単位を落とさないよう勉強して、サークルに入る余裕はもちろんなく、大学では友人を作る暇もほとんどなかった。
1人でいるのは嫌いじゃないから、寂しいとも思わなかった。
そのツケがたたり、就職活動は出遅れて、気づいたらもう大手は採用が終わっていた。
何とか滑り込んだのは、老舗のチョコレート菓子メーカーで、仕事は楽だが給料は決して高くない。おばあちゃんが残してくれた古い家があるから何とか暮らしていけるけれど、家の手入れをする余裕はなく、縁側が朽ちても給湯器がへそを曲げても、修理代がもったいなくて放置した。

「銀河売り」を、一度手放そうとしたことがある。
先輩と同期の結婚式が重なって、ご祝儀やフォーマルウェアの出費をまかなうためカードローンとクレジットカードのリボ払いに手を出した。
そこから面白いように借金が膨らんで、もはや給料では返せそうになかった。
その時、銀河売りの箱の中の、あの文書が頭に浮かんだ。
「真二困窮セシ時ハ我ヲ売レ」
困ったら、これを売りなさい、と、おばあちゃんは言っていた。

そこで、ネットで見つけた骨董屋に、銀河売りを持ち込んだ。

ところが、骨董屋は、中身の茶碗を見て、顔をしかめて首を振った。
「古いだけで値打ちはないね。箱と仕覆が立派だから、箱代で5万円出そうか」

なんだ……
身体から地面に力が吸い取られて、立っているのがやっとだった。

来たときよりも明らかに雑な扱いで持って帰った銀河売りは、家についてから取り出してみても、やはりなんの魅力もない、カセカセになった黒いだけの茶碗だった。

もう、ご飯茶碗にしちゃおうかな。ラーメン丼にしてもいいかも。

ため息をついて箱にしまい、蔵の一番奥の棚にポンと置いて、そのまま存在を忘れた。

数日後、未明に消防車のサイレンで目覚めたときは、すでに焦げ臭さが家中に回っていた。
財布とスマホを握りしめて庭に出ると、隣家が炎に沈んでいて、うちの離れから母屋に火が回りつつあるのがよく見えた。
仏壇のおばあちゃんの位牌を持ち出すだけで精一杯で、財布とスマホと位牌以外、木造の平屋の母屋と離れは全て焼け落ちた。蔵も激しく火に炙られた。
翌日、焼け跡を歩いてみたが、使えそうな家財道具は何もなく、見事に黒焦げだった。
蔵を開けてみると、大半の荷物は高温で炭化していて、こちらもほぼすべてがゴミだった。
ただ一つ、一番奥の棚で、銀河売りの桐箱だけが、きれいな白さを保っていた。開けてみると、仕覆も茶碗も文書も、何もかも、何事もなかったかのようにそのままの姿でそこにあった。

皮肉なことに、火災保険金で借金はすべて返済できた。奨学金の残債もなくなった。
しかし、住むところもなくなった。

心機一転、私は住まいも仕事も変えることにした。
住み込みで働ける景勝地の温泉宿で、仲居の仕事を見つけた。
朝は早いし夜は遅く、布団の上げ下げや掃除、食事の配膳など力仕事が多いが、体を動かすのは意外にも楽しいことが分かった。
常連客が中心で客層もよく、お客様に心地よく過ごしていただく工夫をするのもやりがいがあった。

いつの間にか、旅館の次男坊と付き合い始め、とんとん拍子に結婚が決まった。
夫は旅館を継がない代わりに、後継者がおらず廃業するところだった地元の古い旅館を買い取り、外国人観光客向けに和風B&Bとして改装した。
すると、インスタグラムで話題になり、数年後、海外資本の大手ホテルチェーンが買収を持ち掛けてきて、夫はその話に乗った。

今や、私たちは、ホテル業でちょっとした成功者だった。
東京に転居し、娘をお嬢様学校に通わせる余裕ができた。電車通学だが、いい友達もできたようだ。
何もかも順調だった。
仏壇に据えた祖母の位牌と「銀河売り」に、私は毎朝、水をそなえて手を合わせた。
いつまでも、この順調な暮らしが続きますように。

しかし、娘が中学1年生になったある日。
娘は夜になっても帰宅しなかった。
最初は「連絡もなく遅くなって、何やってるの」といら立ち、時間がたつにつれて「どうしたんだろう、何かよくないことに巻き込まれたのだろうか」と不安になり、恐怖にかられた。
深夜に帰宅した夫は、すぐ警察に連絡した。

その時、私のスマホが震えた。娘からのLINEだった。
「もう、何やってるの、心配させて!」と、安心と怒りに体が震えるのを必死に抑えつつLINEを開くと、文面は娘のものではなかった。

「娘は預かった。生きて帰してほしければ、3日後までに2500億円を用意しろ」

続いて現れたメッセージは、娘のバストアップの写真だった。
目隠しをされ、口にタオルをかまされて、頬が紫に腫れている。制服はきちんと着ているが、両腕が不自然に後ろに回っており、どうやら椅子に縛られているようだった。

目の前が真っ暗になり、頭から音を立てて血が引いていった。気が遠くなる。このまま意識を失い、何もかもなかったことにしてしまいたい。次に目が覚めたらいつも通り、夫と娘の笑顔があふれ柔らかい日差しが差し込む幸せなリビングルームにいるはずだ……
けれど、震える私の手からスマホをもぎ取った夫が警察に再び電話をかける大声で意識は戻り、これが現実だと受け止めざるを得なくなった。

2500億円。
途方もない金額は、我が家の事業資産と個人資産をすべて売り払っても、とうてい調達できる金額ではない。もちろん、貸してくれるあてもない。
3日後までに、2500億円なんて、非現実的にもほどがある。

警察が何人も乗り込んできて、いろいろな機器を設置し、家の中は慌ただしい。
唯一、静かな仏間に逃げ込んで、仏壇の前にへたり込んだ。

おばあちゃん、どうしよう。このままじゃ娘が死んじゃう。
助けて……

と、位牌の隣で、桐箱が白く輝いたように見えた。

銀河売り。「真ニ困窮セシ時ハ我ヲ売レ」
「困ったら、これを売りなさい」と、おばあちゃんの声がした。

でも、と、私の顔に半笑いが浮かぶ。
これは、値打のないカセカセの黒い茶碗にすぎない。5万円ぽっちの銀河売りが、いったい何の役に立つのか。
位牌と桐箱がかすんだ。涙があふれたからだと気づくのにしばらくかかった。私は夜通し泣き続けた。

翌朝早く、玄関のチャイムが鳴った。
門のチャイムを鳴らして、こちらがモニターで画像を確かめて開錠しないと、玄関まで来られないはずなのに、直接、玄関のチャイムが鳴った。
警察関係者だろうか?
しかし、モニターに映っているのは、大きなまん丸い目と大きな口が印象的な、全体的にぎゅっと押し付けられてつぶれた感じの、小柄な男だった。

警察に促されて「どなたですか」と夫が応答すると、男は言った。
「骨董屋です。お困りではないかと思いまして、お宝を買い取らせていただくお代をお持ちしましたよ」

「こんなやつ呼んだか?」と、夫が険しく私に尋ねる。
「いいえ、全く覚えがないわ」と答えると、夫はモニター越しに男を怒鳴りつけた。
「誰だか知らないが、いたずらに付き合っている余裕はないんだ。帰れ!」

そうしてモニターを切ろうとしたとき、男が呟いた一言が聞こえ、私は反射的に夫の手を遮った。
「銀河売りをお持ちでしょう」
男は確かにそう言ったのだ。

客間に通すと、男は手拭いで汗を拭いて、私に言った。
「銀河売りを売ってくだされば、2500億円で買いますよ。即金で、ほらここにあります」
さっきまで小さなカバン一つしか持っていないように見えたのに、いつの間にか机の上にトランクが並べられ、男が片端から開けると、中身はすべて1万円札の束だった。
夫が息をのむ。

私は飛ぶように仏間に駆け込み、銀河売りをつかんで戻ってきた。
「これでよろしいですか?!」

男の目がぎらぎらと輝いた。胸の前に構えた両手がぶるぶる震え、額から汗がしたたる。
「これが……銀河売り……ですな」
その両手が素早く箱に伸び、止める間もなく開けられていく。

どうしよう。中身を見たら、「これは偽物だ」と言われるのではないか。私は不安になった。だって、中身は「古いけれど値打ちがない。箱と仕覆代で5万円」と言われたしろものなのだ。

しかし、震える手で男が大切そうに掬い上げたのは、あのカセカセの黒い茶碗ではなかった。

天目茶碗は今や、黒い釉薬がぬめぬめと妖しく輝き、内側は天上の星をすべてぶちまけたかのような光に満ちている。
曜変天目茶碗、銘「銀河売り」。その名がこれほどふさわしい茶碗はないだろう。
その曜変の輝きは、まさに銀河。宇宙のすべてがそこにあった。
見れば見るほど、吸い込まれそうになる奥行きがあり、楕円に輝く銀河が、無数の恒星が、茶碗の空間の中にあった。

「……これは」
私の口から呟きがこぼれ出る。
男の目がひときわ輝き、口が左右に広がって、中から牙のような八重歯が現れた。
「銀河売り。宇宙を飲み込んだ天目茶碗。その中には、銀河そのものが封じ込められている。持ち主の危機の時だけ、真の姿を現すのです」
そして、男はぐぐっと茶碗に顔を近づけた。
「ああ……」と、うっとりした溜息をもらす。「何百年、これを探し続けてきたことか……」

夫が隣で言葉を失っている。
男はぎょろりと私をにらんだ。「売っていただけますよね? 2500億円で。あなたが危機を脱するために必要な金額ですよ」
私は呟いた。
「これが……銀河なんですね。でも銀河をあなたに売ってしまったら、その一部であるこの地球はどうなりますか……?」

男は目を細めて笑った。
「それを気にするときですか? 銀河と、あなたの大切なお嬢様の命。どちらが大切でしょうか?」

目の前に、縛られた娘の画像が浮かんだ。胸を衝動が突き上げた。
たとえ世界を失っても、私は娘を失いたくない!
「売ります。あなたに銀河を売ります!」
夫が凍り付いた。
男が両手を打ち合わせ、けけけけけけ! と、獣のような哄笑が響いた。

その瞬間。

客間に警察官が走りこんできた。
「お嬢様が保護されました! もう大丈夫、無事ですよ!」
夫と二人、息をのむ音が重なった。次の瞬間、夫は私を抱きしめ、大声で泣き始めた。「よかった……よかったよ」
私も夫を抱きしめた。とめどなく涙が流れる。暖かいうれし涙だ。

歓喜の叫びで満ちる客間で、低く鋭い舌打ちと落胆の大きな溜息が漏れる。
男は、いつ仕舞ったのかトランクをすべて片づけ、小さな革のカバンを小脇にかかえて、机の上の銀河売りを苦々しくにらみつけた。
「もう私には用がないようですな」
短く言い捨てて、くるりと身をひるがえす。
机の上の茶碗から、徐々に輝きが薄れていく。そこにあったのは、もう元の黒いだけの、カセカセの古い茶碗だった。

警察官に付き添われ、娘が運ばれた病院へ向かう。
娘は泣いて私に抱き着いてきた。「ごめんなさい」と、何度も謝ってくる。
温室のような毎日に飽き、SNSで知り合った男性の誘いに乗って、ちょっとスリルを楽しむだけの気持ちで会いに行き、監禁されたのだという。
男がトイレに行った隙に、縛られたまま必死で玄関を飛び出し、走ってきた車にはねられそうになって、それが救助につながった。

娘を監禁した男は、すぐに身柄を確保された。なぜ娘を誘拐し2500億円もの金額を要求したのか、供述は極めてあやふやで矛盾が多く、精神鑑定も検討されているらしい。

娘は恐怖で電車通学できず、私が車で送り迎えすることになった。
けれど、少しずつ立ち直っていると思う。
いずれ今回のことは、娘が大人になる大きな一歩になればいい。
いつまでも守ってやりたいけれど、親のいのちは永遠ではないから。

銀河売りは、娘がいつか受け継ぐのだろう。
本当の危機にのみ真実の姿を現す、宇宙を飲み込む曜変天目。
娘はいつか、これを売るだろうか。

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