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映画『ソフト/クワイエット』の不快感の正体について考えた話【ネタバレあり】

Twitterのフォロー欄に情報が流れてきて、前編ワンショットを見てみたいなという気持ちと、題材的に自分のメンタルが鑑賞に耐えられるかなという気持ちで迷っていたけれど、なんとなく、観なければいけないような気がしたので観てきた。
https://soft-quiet.com/

映画冒頭から不快感のあるシーンが差し込まれ、時間経過とともにどんよりした気持ちがどんどん重くなり、鑑賞後しばらく映画館の座席から立ち上がれなかった。とても重いけれど、これは何に対する重さなのかもよくわからなかったし、感想を言葉にするのも時間がかかってしまった。
それぞれの立場に対して思うことと、そして、全体的な感想を。


ヘイトを向けられてしまう側に対して思うこと。

全ての人に人権があって、人種も信条も性別も社会的身分も門地も関係なく、当たり前に当たり前の生活を享受できる、はず。表向きはそうなっているはずだけれども、差別はなくなっているわけではないし、人々の価値観に融合してしまっている差別意識はまだまだ存在している。人が他人の価値を軽んじて良いわけではないけれど、でも、軽んじられる状況で生まれてしまった側は、毎日毎日戦いながら生きることになる。
自分の人権を守るべく必死に生きてるだけなのにヘイトを向けられるのは、やたらと通り魔にあってしまうのと似たような感覚なのかもしれないなとも思う。自分たちがみじめな生活を送っているのは、本当に自分のせい?そんなことないよね。だって相手側の理屈はおかしいもの。相手の都合で勝手になすりつけられているだけなのに、都合良く自己責任ってことにして押しつけられているだけ。今置かれている状況の中で、最大限普通に暮らしているし、そんなに戦うことなく普通に暮らしたいだけ。何かに屈するいわれなどないし、他人になすりつけられたものを受け取る必要は無い。無いのだけれど、なすりつけられることで傷ついたり、なすりつけられまいとすることで傷ついたりしてしまう。
映画の中で、被害者さらに被害に遭っているのは見ていられなかった。彼女たちも、普通に生きたいだけ。それなのに、現状彼女たちの人生はものすごくしんどいし、理不尽なことで満ちあふれている。

ヘイトを向けてしまう側に対して思うこと。

人生は、とても不条理なもの。生きていれば思い通りにいかないことなんて山ほどある。そのときに、現実を客観的に俯瞰的に眺めることができれば、自分の力量とか、周りの力量とか、自分と周りとの関係性とか、タイミングとか、そういうのがたまたま重なっただけで誰かの何かだけが悪いことなんてないから、仕方ないねって受け止められると思う。思い通りにいかないことは多くても、それでも自分にできることは何かを考えて、自分自身を成長させていくことで、少しはマシになると信じて生きていくのだと思う。
でも、いざ自分事となると、そうは思えない思えない、思いたくないという気持ちになるのもわかる。うまくいかない人生の原因を、たとえ一部でも自分にあると受け止めるのはしんどいし、そもそも自分が問題に直面していることを受け止めるのもしんどいし、そして、自分の責任や力不足を突きつけられているようで直視できず、逃げたくなってしまう気持ちも分かる。
もちろん、たまには逃げてもいいかもしれない。少し休憩を取って、気持ちを整えて、また自分の人生の問題に向き合えるのであれば。
映画の中で、彼女たちが現実に戻るきっかけにしうるものはいくらでもあった。でもそれらは違和感レベルでしかなく、彼女たちには届かなかった。途中で引き戻してくれようとする人だって居た。それでも、戻れなかった。いや、戻らなかった。戻らないことを選択した。

己の弱さに向き合えない人たちの行く末。

自分の人生に向き合えなくても、人生の問題から逃げ回っていても、そしてそんなことをしてしまう弱い自分であっても、生きていくことはできると思う。映画の中でも、彼女たちには親族なり関わってくれる人が居たから。
でも、それでも納得できなかったのかなと思う。
自分の人生の理不尽はあまりに理不尽でくじけてしまった。
このまま自分の問題を見つめることで心が壊れてしまいそうで怖かった。
だから逃げてしまったし、逃げざるを得なかった。
逃げ腰になっている自分は悪くないし、逃げる自分を正当化したかった。
逃げても良いよとと言われたかった。だから仲間が欲しかった。
それでも、能動的に逃げていると思いたくなかったし思われたくなかった。
だから、目を背ける先が必要だった。
理不尽への憤りをぶつけられる捌け口が必要だった。
逃げられれば、逃げている自分を知られなければ、何でも良かった。
逃げることが目的だったから、相手は誰でも良かったし、何か別のことをやりたかったわけではなかった。
やりたいからやったわけじゃない。そうせざるをえなかっただけ。そう思いたかった。
どれもこれも、自分がどこを目指して何をしようとしているのかすら考えていなかった。
そして脇が甘いまま、後戻りできないところまで行き着いてしまった。
自分に向き合わずにすむならそれでよかった…行き着いた先で、逃げ道も無くなった状態で、よりつらい人生の問題に直面することになろうとも…?
……自分の人生を台無しにしただけじゃない、周りの人生も巻き込んで台無しにしちゃったね……。


映画のラストのその後を考える。

彼女たちの脇は終始甘々だった。それは、別にそれをやりたいわけじゃなかったから。流れで。仕方なく。せざるを得なかっただけだから。あなたのせいだもの。私のせいじゃないもの。でも、それでも、私は私のために頑張ったから…彼女たちの心情は、そんな感じなのかなと思う。
きっと彼女たちは社会的責任をとらされることになるのだと思うし、ヘイトを向けていた相手へのヘイトはさらに強くなるだろうし、彼女たち同士お互いを罵り合うのだろう。社会的責任を取った後どうなるかまではわからないけれど、でも、よほどのことが無い限り、程度は違えど似たようなことを繰り返し続ける気がする。

映画で感じた不快感の正体。

彼女たちの言動は、客席から眺めている限り、とても滑稽。何であそこまで行き着いてしまったのか。そもそも登場時点で違和感があった。メインの彼女なんて、子どもに対するヘイトの価値観の植え付けと、保護者に対する自己保身がすごかったしな〜。自分の保身のために都合良く情報を取捨選択して他人を巻き込むのは無しだな〜。やべえ奴らだな。
…なんて切り離せない。ぜんぶ地続き。私自身も、ほんの少し歯車が違えば、同じ道を歩みかねないな。辛いことがあれば逃げたくなるし、逃げている自分はできれば認めたくないし、他に気晴らしができる大義名分があればそっちに飛びつくだけの弱さもある。
彼女たちのようなラストに行き着くとは限らないとは思う。それでも、あのラストに近い状況までつながりそうな道は確実に自分の人生の中にも存在していて、自分の歩いている道がそっちにつながっていない保証なんてない。
もし自分の歩いている道が、他の誰かを傷つけることでしか成り立っていないなら、私は、それに気づけるのだろうか。
気づかせてくれる人は側にいてくれているだろうか。
気づかせてくれる人の言葉を聞ける自分で居られるだろうか。
気づいた上で、その道に進んでしまった自分を反省できるだろうか。
また別の道を歩もうとできるだろうか。

正直なところ、自信がない。
映画に出てくる彼女たちへの不快感は、彼女たちと自分は違うのだと言い切れない私自身への不快感なのかもしれない。


おまけというか蛇足

誰かに対して「ずるい」と思ってしまうときって、自分自身が我慢していて誰かに助けてほしいというニーズがあるとき、らしいよ。



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