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サーカスの「平らな目線」が私を救った理由。(その⑥)

結局、解放されたかったのだと思う。

「彼らの背後で、世界は崩れ落ちた」

と、書いた。
サーカスアーティストたちに会って、彼らがサーカスを見せるより前に、目を見ただけで、世界は崩れ落ちてしまった。

射抜かれたのは、まっすぐで温かく、上からでも、下からでもない、私の目と、まったく同じ高さの目線だった。

どうして、人間は上だったり、下だったり、斜めだったり、
まっすぐに人を見られないのだろう?
なにか、いつも、ある。その角度が、ズドン!と、同じ高さで、私を射抜いたー。

美化しすぎだよ、と笑われるけど。

要するに、自分は「一本の身体」にすぎないと、知っているか否か、だと思っている。
肩書きとか、学歴とか、財産とか、そんなものは、
ビル10階の屋上で、片腕でぶら下がってしまったら、何か関係はあるだろうか?

つまり
「命」
ということ。
いのちとは、身体いっぽんの重さでしかない、という気づきを、サーカスが教えてくれた。
この衝撃的な(私にとって、だけど)出会い以降、もう19年も経つけれど、自分はいっぽんの身体にすぎない、という感覚だけは、ずっと失わない。

わたしなりの、「信仰」について。

現代日本で「信仰」という言葉を出すと、身構えてしまうかもしれない。
私が感じている信仰は、○○教と名前がついていない、まさに「信じている大切なこと」。

美術史をフランスで勉強して、ゴシックの教会に惹かれ、モスクや、イスラム教のアザーンに心を洗われる。

私はキリスト教徒ではないけれど、ヨーロッパの教会が本当に好きで、
美術史専門として通い詰めていた美術館より、今は、ヨーロッパに行けば教会に「自分の家のように」入ってしまう。
そして、1ユーロを入れて、蝋燭1本を、ともす。

ヨーロッパといっても、ほとんどフランスのカトリックの教会しか知らないのだけれど、夏の暑い日、冷たい風が吹き付ける日、
いつも、教会はなにも言わずに受け入れてくれる。
中に入り、周りの人々の雰囲気をみて、失礼のないように気遣いつつ、
導かれるように、デアンビュラトワールと呼ばれる後陣の回廊をゆっくりと歩く。
そのなかで、ここに蝋燭をともしたい、と思うところで、1本蝋燭を灯して、手を合わせる。
お願いとかじゃなくて、教会に入らせてもらったことや、いろんなことへの感謝を伝える。ただ、それだけ。

アザーンも、ミサも。

イスラム教のアザーンが、夜も明る前に聞こえてきたり、
日曜日のミサの合唱とパイプオルガンにたまたま、居合わせたり。

あ、日本のお寺や神社でも、美しい合唱で念仏や声明が聞こえたりすると、それも同じ気持ちになる。

そういうときは、本当に嬉しい贈り物をもらったような気持ち。

宗教がなんであれ、純粋に祈る気持ちは、誰にとっても、よいものに決まっている。と、私は信じている。


サーカスは、コンクリートのような、心の塊から、解放してくれた。

なんだろう。
結局は、何も否定したくないし、
人間を信じたいし、
可能性も信じたい。

そのためには、自分がささやかなものである、という感覚を、持ち続けることが一番大切なんじゃないのかな?

時には難しいこともあるけど、自分が小さな石である、と思うことは、とても好きだ。
フェリー二の「道」にも出てくる、台詞。
「ぼくにはこの小さな石にどんな意味があるかわからないけど…
この石に意味がないのなら、他の何にも意味はないんだ。」

という、まさに、それだと思っている。

サーカスも、まさに、それだと思うんだ。

(連載 完)

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