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偏差値70のパームボール

「東京大学に入ってまで恥をかく必要、ある?」

1浪で東大に入ったあたしは、同じ理科一類に通う色白の彼氏にいつも聞く。
彼は硬式野球部に所属し、週末は神宮球場で野球をして、ボロ負けをして他の五大学のおっさんたちに笑われている。
普通にサークルに入っていればクソモテるだろうに。
でも、彼は東大ブランドをモテやあまたある欲望に使わず、「東京六大学野球」の一チームに所属できるという権利に全振りしているのだ。

早稲田には150キロ後半を投げる剛球エースがいたり、慶応には高校時代に全国制覇を成し遂げて「ヒーロー」となったスラッガーがいる。
しかし、東大には甲子園はおろか県大会の1回戦を突破したことのない選手が大半で、当然彼氏がエースだった高校も初戦で普通の公立高校に惨敗した。それはそれはみじめな負けだ。
8つのエラーをして、17個三振を奪われたらしい。

どれだけ勉強ができて、物理や科学の知見があっても、それを肉体パフォーマンスで体現できない。それが東大野球部なのだ。彼氏なのだ。
普通に家庭教師バイトをしていれば、時給4000円も夢じゃないだろうに。

東大が東大が持つ連敗記録に並んだ。
あすでワースト記録がかかった日の夜、あたしたちは彼のワンルームの部屋でくつろいでいて、当然そんな雰囲気になった。東大野球部に寮はない。

しかし、アタシが彼の足に体を巻き付けようとしたそのとき、彼は「明日は大事な日だから」と誘いを断った。は? 大事な日ってなに? また負けるだけでしょ? それより明日は……。

分かり切った運命が待ち受ける翌日を迎えた。彼はまっさらなピッチャーマウンドに立って、大きく息をして目を2回つむっては見開いた。
「……あ」
彼が難しい論文を読む前や研究に臨む前のルーティンと同じだ、アタシは思った。そんなときの彼の集中力はえぐい。

彼は”小さく”振りかぶって、法政のトップバッターに第一球を投げた。余裕の表情で見送る打者。ヘルメットからはみ出す後ろ毛が憎たらしいほどクールで生意気だ。なんでもプロ注目の野手らしい。
バックスクリーンに協賛企業とともに、123キロという球速表示が出る。
場内が覚めていき、神宮の森の気温が少し下がった気がした。

アタシは初めてやってきた神宮球場で居ても立っても居られない気持ちになった。背中に虫唾が走ったのだ。
共感性羞恥? 彼氏がバカにされてる情けなさ? 

いや、勝てるという予感だ。

アタシたちは知っている。解答用紙をめくって1問目を見たときに「この試験、受かる」という感覚。
あれを感じた。なぜか。めっちゃ遅いボールなのに。

2球目。”大きく”振りかぶった彼氏は、分度器のような放物線を描きながら、ドロンという擬音語がピッタリの変化球を投じた。
ロン毛は強振するが膝をついて崩れ落ちた。
ボールはミットに吸い込まれた。

パームボール。
それが彼の武器であり、生命線だった。カーブでもスライダーでもない独特の軌道で曲がる球を彼は隠し持っていたのだ。
いや、正確には披露する機会がなかった。これまでチームが弱すぎたから。

もう一球、パームボールを投げる。ロン毛は見送るが審判が手を上げる。ストライクだ。余裕の表情は消えている。

彼は証明しようとしていた。東京大学に「わざわざ」入った意味を、このグラウンドで。大嫌いな勉強を我慢してまで14時間勉強を続けた根性を。

そして、今日20歳になったばかりのアタシに誕生日プレゼントを渡すために。今度は、クイックモーションでまたパームボールを放った――。



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