見出し画像

何もない

「何もない」

あーラクガキ集の本のタイトルどうしようかなー
なんて最近考えていて、最終的に多分

・Nothing
・The Note

のどちらかにすると思います、多分Nothing、かな…(多分)

最近「何もない」ことについて考えます
多分「Nothing」って単語を「無」ではなく「なんにもない」って意味合いで使いたいんだと思う
(その場合もっといい単語があるのか…?)

4年前、デザインフェスタギャラリーに併設したカフェの壁に絵を描かせてもらいました

その絵を描く3ヶ月くらい前かな
やろうとしていた個展を体調がよろしくなく、泣く泣く中止したんです

そしたらさらにどんどん精神的に堕ちていってしまって
展示もできなくなっちゃったし、しばらく絵も描けなくっちゃって
普段の生活もままならないくらいなんにもできなくなってしまいました

それでこのままだと死んじゃうと思ったから
絵描かないとダメだってなって

「いや、でも展示もしたかったし、展示となると描き溜めないとだしなー」
「ん…?描いてるとこ見てもらえれば制作と展示が一緒にできるから一石二鳥じゃね?」と、なり

最高潮に落ち込んでた割には
「今まで一度もやったことがないことがやってみたい!」
「今までで一番デカい絵が描きたい!」
とやりたいことが次次沸き起こって、結果公開制作?ライブドローイング?という体で壁画制作をスタートさせたワケです

はっきり云ってめちゃくちゃ面白かったです

いや、最初の3日目くらいまでは、描いてるところを知らない人が立ち止まって見ていく度に
(見ないでくれー!手元を見られると緊張するからやめてくれー!)
となり「ライブドローイングとは…?」ってなってたんだけど

初日から色色とミラクルが重なり
同じ絵描きのさく路さんの展示と被っていたり
「ヒロミさんですよね…?」と勝手にカフェの部屋に人が入ってきたり(そのときはまだ準備中で締め切っていた笑)
東京に越してきたばかりの友達が見に来てくれたり
不思議と知り合いに囲まれる状況になり、少しずつ緊張はほぐれていきました

まぁ慣れてきたらこっちのもんですよ
むしろ見られていた方が筆が進む進む!
立ち止まって見てくれる人がいたら、わざと大きく体を動かしてダイナミックに描いてみたり
知り合いが来てれたらその人の名前やツイッターのアイコンを描いてみたり
兎に角、来てくれた人が喜んでくれたらいいなぁと思う一心で描きました

予定調和で描くひとりの制作とは違って、予想外のこと、自分が引くつもりのない線がたくさん描かれて
それにどう立ち向かっていくのかも楽しかった

外国の人はもうこっちがイヤホンしてめっちゃ集中して描いててもそんなのそっちの気でガンガン肩叩いてきて
「お前の絵、最高にクールだよ!イカすね!Oh Yeah!!」みたいなニュアンスのことを(多分)云ってきてくれて
「描くそばからリアクションがもらえるってこんなに楽しくてうれしいことなんだ!」って
信じられないくらいモチベーションに繋がったのを覚えてます

余談なのだけれど、私は私の中の世界が小さな頃から散らばってしまっていて
「自分」というものがあまり確立されていない感覚があります
(こればっかりは文章を書いているくせに言語化するのが難しいのだけれど)

顕著な例だと、私は身体は男なのだけれど性自認はそうではないです
つまり私は自分自身のことを男だと認識したことは人生で一度もなく、
かといって女性でもなくて、その中間あたりをふわふわ漂っている感じ

信じられないと思うけれど私が想像する自分の見た目、イメージは
髪はもっとロングヘアーで、長いスカートが似合って、背丈は153cmくらいのはずでした

だから自分が意図しない瞬間、例えば街のガラスとかに反射して映った自分を見るとギョッとします
やたらとデカい178cmの、猫背のヒゲ面の男が映っていて
「え、これ誰…?あ、私の外側か」ってなる

例をあげればキリがないのだけれど「自分」という認識が外側と内側でちぐはぐで
それはもう仕方がないことだと今世では妥協することにしていました

でも

ラ イ ブ ド ロ ー イ ン グ し て い る と き に そ の 瞬 間 は 訪 れ まし た

脚立に乗って壁の端から端まで必死に手を伸ばして描いているとき
ふいに世界がひとつになって
ばらばらに散らばっていた「私」という認識がひとつになって
初めて「自分」になれた気がしたんです

それはたった数分、いや数十秒くらいだった気がするれど
涙がボロボロ流れてきて、それはもう云い変えようのない快感だった

もしかしたら今もその感覚を味わいたくて描き続けているのかもしれません

(余談が過ぎました)

やったことないことにチャレンジしたり
こっそりやるつもりだったのに思った以上に人が見に来てくれたり
本当に楽しくて幸せな時間でした

楽しすぎてもっとやりたくて
「すいやせん…もっと壁に描かせてくれませんかねー?」ってギャラリーの人に相談したら
「階段のスペース空いてるんで是非好きに描いてください!」って云ってもらえて
「もっと絵が描ける!やったー!!」と歓喜したもんです

それから制作を続けて、カフェの壁、階段スペースに飽き足らず
次は野外スペースの壁に描かせてもらえることになりました
けれど雨が降ると油性ペンとの相性が悪く、物理的にインクが乗らなくて
折角ギャラリーに着いたはいいものの、雨が降りだして帰るしかない日もあったり
絵を描きたいのにそれを外に出せない反動が溜まってしまう日もありました

「命をすり減らして描くのやめた方がいいよ」

かつて師匠に云われた言葉を思い出しました
楽しくて、どこまでも突き抜けていけそうな気分で制作を続けていたけれど
慣れない環境でどこかガタが来たのかもしれません

制作の終盤は「楽しんで描く」どころではなく
この数ヶ月で気付かないうちに使い切ってしまった気力と、無意識に溜まっていた疲弊と戦いながら制作を続ける日日でした

それでもなんとか納得のいく形まで持っていくことができて
最後に振り絞って階段の絵と、野外スペースの絵に完成のサインをして安堵したのち、死にそうになりながら電車に乗り
家に着く前になんとなく八王子駅で降りて川まで歩き(私は川が好き)
レモンサワーを開けて、近くに生えてた雑草を足元に並べてぼーっとしてました

力を使い切ってしまって、結局その後またしばらく動くことすらままならかったです

長くなったけどラクガキ集のタイトル、なんにしようって考えたとき
そういえば昔「何もない」っていう詩を書いた気がすると思って
この壁画制作が終わった直後の詩、というか日記みたいなものにこう書いてありました

「3ヶ月間、本当に色んなことがあったんだけど
終わって振り返ってみたらまるで人生の縮図のような3ヶ月間だった

良いことも悪いことも(いやもちろん良いことのが多かったけれど)たくさんあって
それと同時に気分の上がり下がりも目まぐるしかった

絵が描けるのがうれしくて、それを観に来てくれる人と会えるのもうれしくて
初恋してるときのような気分の時もあったり
どうしても描けなくて帰った悲しい日もあった

うまく云えないけれど、これってきっと一生続いていくんだろうな
そう想ったら「何もないんだな」って感じたんです
日日はたんたんと進んでいって、これが死ぬまで続くなんて
なんて絶望的なんだろうとはじめは想ったけれど
それはもしかしたら絶望でも希望でもなくて
ただの現実なのかもしれないって

その現実を突きつけられたとき、果たしてどうやって生きていこうかと考えます」

偶然だけれど、今の自分の心境と似ていて
だからこそ今まで描き溜めてきたラクガキ集のタイトルを”Nothing”にしたいのかも

私はある出来事に直面したとき
「うわー!やったー!超うれしい~!これがずっと続けばいいな〜」って感じるし
「もう最悪だ、死ぬしかない、今までありがとうございました…」とも感じる、感じてしまう

無から生まれて無に還っていく人生の最中に起こる出来事なんて
面白くするのもそうでなくすのも解釈次第
結局何をやり遂げたって未来永劫、幸せにはなれない
死にたい気持ちも死なければいつか時間が和らげてくれるかもしれない

重要なのは今、どう動くか
     今、どう生きたいかということであって

「いつか死んで何もなくなるのならば、今感じたものを精一杯咀嚼して味わって生きていこうぜ!!」

って意味合いを””Nothing”って単語に持たせたかったって話です
(これを説明するためにこんな長い文章を…)

もしそう考えられたらもう少し楽に生きられるのかなぁ

「結局何もなくなるんだったら」なんて簡単には考えられないけれど
何もない無から生まれて、何もなくなる死へむかってゆくのなら


もしかしたら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?