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DINKsは消費に依存しない

自分自身が行動することで楽しむ思考と、他人が何かをしているのを見ることで楽しむ思考。趣味や余暇を彩る方法としては同じだけれども、全く性質が異なるものだと最近改めて感じる。

訪日外国人観光客が、日本で体験を重視した観光を楽しんでいるのに対し、日本人は「良いレストランでの食事」「モデルコースでの観光」「お土産の購入」を重視した観光をしないのかと感じることがあるらしい。価値観が全く異なるなと思ったし、これは自分の親世代と話していても、本当に強く思うところだ。

私と妻はほとんどテレビを見ない。テレビを見るとしても、それを見て何かを考えたり感じたり、夫婦で思考に耽るようなものしか見ていない。つまり、今後の自分たちの行動のエネルギーになるようなものしか見ていない。さらに、見ながら何かを調べたりメモしたり、感じたことを書いたりすることが多い。自分が主役や主体で何かを楽しむことが、私たち、とくに私にとっては大きな軸になっている。

一方、時代とともに新しいものが次々と誕生し、与えられたものを消費するのが主流だった親世代は、現代をつまらないと嘆くことが多く、暇を持て余すことが多いという話をよく聞く。「ちょっといつも降りない駅で降りて散策してみたらどう?」といっても、特に興味がわかないとか、飽きてしまうという返事がくる。何か動画を作ったり文章を書いたりすることも、気が向かなかったり、とにかく「飽きてしまう」ようだ。

けれども、「飽きてしまう」人たちが延々と張り付いているのが「テレビ」だ。私からしたら、自分に全く関係ない芸能人がトーク番組で恋愛や自慢話、説教臭い話、ステレオタイプな時事問題を話している映像のどこがおもしろいのか、何かそれに刺激を受けることがあるのか、と思ってしまうが、気づくといつもテレビがついているのが、実家であり、親戚の家である。

年配者が決して人生を楽しんでいないわけではないと思う。ただ、与えられたもので楽しむ選択肢しかなかったのだなと感じる。モノを買ったり、何かを鑑賞したりするという、一方通行のエンタメや消費行動に社会が画一的に向かっていた時代を生きた人たちは、双方向が前提で一体感のない社会の中で、何をしていいのかわからないのかもしれない。

「ないものは作ればいい」と考えられる自分は幸せなのだろうと思う。そして、その作る過程を存分に楽しめれば、人生に暇なんて存在しないし、他人の行動に一喜一憂することもないだろう。仮に、昔の世代の人たちがいう「自動的に与えられる刺激」が欲しい場合も、視点を変えるだけでいくらでも獲得できる。図書館の本、ネットで勉強する、おいしいものを食べる。これだけのことが、大きな労力をかけずに身近な環境で獲得できるのが、現代の良さでもある。

それを楽しめるかどうかはその人次第だけれど、楽しめない人の気持ちにも思考を向けてみる必要があると思った。これまでの自分は、ただ「なぜこの人たちはそんなにつまらないと嘆くのだろうか」としか考えていなかったから。

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