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「家出するためにはまず、家に住まなければ」という歌詞について

先日、妻の親戚の結婚式で、両家の自己紹介の際に職業を言う様式だったという話を書いた。同じようなことが田舎ではなく日常生活でも起こっていることを実感する。

以下、別のエントリーと公開時期が前後してしまい、過去記事を見ればわかることの重複になってしまったが、そのまま記載することにした。

今は無職の妻。初見の方のためにざっくり話すと、私たちは子供を持たない夫婦で、妻は働いていない。それは私が望んでいることで、理由は「妻に働かずに遊んでいてほしいから」というものだ。私の代わりにたくさん遊んでたくさん面白い話題を見つけてきて毎日笑顔でいてくれる方が、やりたくない仕事に疲弊して不幸そうにされるよりも遥かに幸せだから。要するに夫のエゴである。

無職の妻に対し、日本社会に順応している多くの人は言う。「仕事は?」と。育児をしていない人は仕事をしているという前提がある。育児をしていても仕事をすることが良しとされる現代だから、仕方がないということもあるし、両方やりたい人もいるから、それが良い悪いという話ではない。

そうではなく、どの道も本人が望むなら素晴らしいよね、という単純な話なのだ。にもかかわらず、何かを頑張っていること、もっと言ってしまえば、何かを我慢していることを人生の中心に据える生き方が、当たり前のものだと解釈されている。

話を戻すと、仕事は?と妻に聞く人をみるたびに、働いていることを前提に話すの、やめてもらえますか?と言いたくなるのである。今日何食べた?とか、趣味は何ですか?とか、そういうレベルで「仕事は?」と問うなという話なのだ。

妻が働かないことでどれほど家が、夫婦関係が、人間単位での私の人生が豊かになっているかは計り知れない。毎日楽しい話題を持ち帰ってくれる、イヤイヤ強いられた活動をしないことにより心身も健康の極み、毎日ニコニコしてくれる。これは間違いなく労働を脱したことによる効果であり、次の日に嫌なことが待っていて、朝起きなければと思うことがないだけで、夜の安心感も半端じゃない。

苦しむのは一人で十分なのだ。私一人分の苦しみは、妻の毎日の楽しそうな様子を見ることでほぼ打ち消されゼロになる。二人で労働すれば、二倍の苦しみが癒される場を失って夫婦を取り巻く。仕事が楽しいならば別だが、楽しくないことを我慢して、結局は「誰かに我慢させられている」となってしまう。それを避けたくてこうしているのだ。

だから、私たちにとって、働く必要のない人は当然のごとく働かないし、必要がないのに嫌な労働をするのは異常なのだ。前提が異なるのである。だからできるだけ夫婦で働いていると嘘をつく。上記のことを説明しても拗れるだけの人にはいくら説明しても無駄だからだ。

対峙する二者の存在を対等に捉えることは難しい。仕事は?と聞く人には、どうして働いていないの?とでも言いたげな人も多いだろう。けれども、どうしてあなたは働いているの?と問うことはほとんどない。働く、働かない、コインの表裏のように同等な選択肢のはずなのに、どちらかが前提になっている。世の中には、表裏一体のものが偏って捉えられている場面が案外多いのではないかと感じている。

amazarashiの作品に「タクシードライバー」という曲がある。この歌詞を見ていただきたい。

排他主義反対と疎外する人間がいて
暴力反対という暴力には無自覚なやつがいて
不良になるためにはまず、良い人間にならなければ
家出するためにはまず、家に住まなければ

amazarashi タクシードライバー 歌詞

当たり前のような状態も、必ずそれと対になる概念や状態、事物が存在して、どちらかだけが存在することはない。片方に自分の意識や常識が傾いている時、人は危ない選択をしてしまうかもしれないし、今持っているものを失うかもしれない。

その結婚式で繰り広げられていた価値観も理解できる。普通にこれまでどおりの日本社会的正解の人生を歩むことに疑問を感じない人や幸福を感じる人にとって、妻は何を暇を持て余しているのだろうと思うわけだ。そして、大学に通っていることも、労働や育児に役立てないのになぜ取り組むのかと思ってしまうのだ。なぜなら彼らは労働と育児だけをしていれば人生は間違いないと思っているからで、余計なことに手を広げたり、実利(労働と育児)にならない学びは無駄と考えているからだ。

そう考えると、無駄が悪いという考え方や、無駄という考え方自体も、なにか相対的な概念があるとか、いろいろと考えてしまう。無駄とはなにか。そもそも、決められたレールに乗る人生、人と同じことだけをやる人生に執着するのであれば、自分が自分である必要はあるのだろうか。生まれたことが無駄なのではないか。そう考えることもできる。

別に何が良くて悪いという話ではなく、広く一般に正しいとか、良いとか評価されていることが、何を根拠にそう言われているのかを、立ち止まって考えるくらい、毎日の生活に時間と気持ちの余裕を持ちたいよねというだけの話なのである。

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