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子供をほしいと思わない既婚男性の一日

昨日は会社帰りに妻と都内を散策した。フレックス勤務で16時に会社を出て、神保町・九段下エリアで美味しそうなカレー屋さんを見つけて、お腹いっぱいカレーを食べて、周辺を散策してから帰宅した。雨宿りのため新宿の紀伊国屋で本を見たり、久しぶりに直帰や副業以外でプラプラした気がした。

中途半端な時間に夕飯を食べたので、夜に軽くデザートを食べながら飲み直す。この中で、妻が今読んでいる本を紹介してくれた。

「生涯子供なし」というタイトルの本。無子社会日本の現状とそうなった経緯を多角的に考える本とのことで、勧められたので、これを書き終わったら読もうと思っている。その中で「既婚男性で子供を欲しがらない人」というのが極めて少数だということを話していたし、このパターンの男性の思考や経験の源泉についてまだまだよくわかっていないことが多いという話を聞いた。私のような人間のサンプルは少なく、なぜそうなったのかのデータも乏しいというのが現状なのだとしたら、私は何か「男性・既婚・子供不要主義」コンテンツとして、何か発信して役に立てることがないかと考えた。何がいいだろうかと今構想中だ。

私が子供をほしくない理由は、別記事でも書いているので、重複を避けるために今回も別の視点で考える。前回の記事でも書いた通り、この国の「減点主義」「否定から入る文化」が本当に苦手で、子供を育てることで、この否定文化に再度深入りする必要があるから、それをしたくないということがあるのではないかと思う。自分自身についても、否定的な言葉をかけられて嫌な思いをしているのだから、自分の子供が同じ目に遭うのはさらに苦痛だろうと思う。

昨日は会社で簡単な打合せがあった。担当している社内研修の報告をすることになっている。研修といっても、形式的なもので、正直誰も関心を持っていない。日程消化的なものだった。形式的なもので実行を強要されているものは、ある程度省エネ化した上で効率よく、適当に片付ける(プラス、何か面白い要素が生じたら、それは存分に楽しむ)というのが私の考えなので、この考え通りにやってみたところ、進め方や捉え方について、結果報告書にケチがつき、使っているソフトにもケチが付き、参加者アンケートの集計にもケチがつき…気づけば報告事項の全てに対して、程度の差はあれ「否定的」な言葉が投げかけられていた。

普通ならば、ネガティブな言葉を上席からぶつけられているのだから、これに対して「悲しみ」「怒り」「恐怖」「悔しさ」が込み上げてくるのだろうとも思うのだが、途中から「自分はこういう大人にならなくてよかった」と安堵している自分自身に気づいた。

私自身の取り組みがそもそも会社文化に合っていないので、何をやっても否定されることが多いわけだが、この打合せには日本の会社文化の悪いところが詰まっていた。

まず、上席がケチを付けていることのすべてが「後出しジャンケン」なのである。構想の段階での決裁では、ロクに内容を見ずにOKを出しておきながら、出た結果に対して、その処理が理想イメージ通りにできないから不満を言っているような感じである。

次に、何かを指摘するにしても、「これ〇〇じゃ駄目じゃないか、どうするよこれ」という感じで、どうしようもないことについて駄目であるという指摘をして場の空気を黙らせる手法を取ってきたのである。物を壊してしまった人に対して「どうしてくれんのこれ」と詰め寄る心理と同じだろう。修理するか諦めるかの二択しかない。それが分かっていながら「詰める」というやつである。

最後に、建設的なことを一切言わないことだ。これが駄目、これが駄目と、100点から減点するだけの評価軸。減点方式の息苦しさについては先日も書いたが、これが詰まっていた。

私自身の仕事の進め方が悪い部分もあり、この組織の要求には答えていないこともあるだろう。ただ、それと「否定的な言葉を並べて相手に迫る」のは別の問題だ。業務としてできるべきこと、人間としてできるべきことは、立場や業務の結果とは別次元で考えられるものであり、いくら正論だとしても、この上席が打合せの場で放った言動は、個人的には「人として正しくない形」に見えたのだ。こう思わずに、ただ人から責められて気を病んだり、感情的に反発したり、悔し泣きしても、結果は同じで、結局は組織人として服従する選択に落ち着くしかない。

大事なのは他人や仕事の成果としての「正解」を追従することではなく、他人が作ったものや考えたものを頭ごなしに否定しないことだと私は思うし、私は「否定的な物言い」にとても不快感を持つ性格なのだということもよく理解できた。

「美味しい」といえばいいのに「味が薄い」と言ってしまう食卓。得意科目を褒めればいいのに、苦手科目を克服しなさいと子供を諭す親。言語化しない期待値を超えることを要求する会社の上司や同僚。これが単純に「嫌い」なのである。

今の職場に移ってから、ずっと体調がイマイチだったり、疲労感が大きいが、その理由はおそらく、あらゆる人が人の悪口を言ったり、他人を認めない言動をとっているからなのだとわかってきた。自分自身への批判だけではなく、各所で誰かが誰かの成果物を批判している。褒める人間はどこにもいない。「このお店は美味しくない」というレビューを見て嫌な気持ちになるのが私だとしたら、そういう厳しいレビューを書いたり読んだりして気持ちがスカッとする人たちの集まりが、この会社なのかもしれない。

こういう「褒めない文化」「減点する文化」「否定し合う文化」に埋没しないと生活できないのが今の日本社会、(一般人にとっては)賃金に生活を束縛された社会なのだとしたら、ここに生まれてくる意味、生きる意味はなんだろうと考えている。

幸いにも私はこうした「負の常識社会」との「のりしろ」が最小限だからこそ、死なずに生きているが、生活の大半がこれなら耐えられなかっただろう。自分の子供を持った時、その子が同じように運良くやっていけるだろうか。仮に社会に順応したとしても、マイノリティを蹴落とし、人に否定的な言葉を浴びせながら保身に奔走して生存競争を続けるのだとしたら、この子が生まれる意味はあるのだろうか。そう考えてしまうのだ。

無邪気に遊ぶ未就学児の子供が、数年後には人をいじめて自殺させるような人間になることがある。その20年後には人をパワハラで自殺させるような人間になることがある。その10年後には、子供を自殺させるような毒親になることがある。人を変化させるのは、この時間軸だけを見ると、学校や団体行動だと思っている。人に強弱をつけ、強い立場を獲得しがちな個体に対し、支配の正当化を武器に持たせ、それがどんどん固定化する。対等な市民でいられない。強い者に服従し、対等な弱いもの同士で「低評価・低レビュー」を投げあい続ける。そんな社会で、運良く悪魔をかわして幸福に生きることはできるのか。この疑問がある以上は、人類反映や子孫繁栄に対しての無関心を払拭し、これらと距離を置きたい心理と月鼈することは難しいだろう。

私は自分が楽しいと思ったことや経験を少しでも残したいと思っている。けれども、人間をこの世界に自らの意思で増やしたり残したりしたいとは微塵も思えないのである。

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