松場登美(群言堂 / 暮らす宿 他郷阿部家) - 家を舞台にした自分たちの物語、宿泊者と一緒にその物語を楽しんでいく
私は「きれい」と「うつくしい」は異なる意味を持つと思っています。一概には言えないけれど、「きれい」というのは表面的なことで、「うつくしい」は内面的なことや、精神性も含めて「うつくしい」と言うと思うんです。
昔の日本の暮らしは廃材すらも捨てず、再利用していたでしょう。それはとても「うつくしい」ことだと思うんです。そういうことの価値や知恵をね、ただ重い説教のように若い人に押しつけてもだめだと思っています。若い人が興味を持ってくれるような楽しさや「うつくしさ」を、私は大事にしたいと思っていて、できるだけごみを出さないことを、難しく考えるのではなくて楽しむというかね。
この町ではもともと古いものや遺跡を大事にしようという共通の意識がありました。町の人たちは昔からそのことに誇りを持っています。この町は小さな町で不便さもありますが、ふしぎとその不便さが面白さや楽しさに変わっていくんですよね。
この阿部家(※1)にあるものも拾いものばかりです。台所にある椅子も廃校になった小学校のパイプ椅子だし、テーブルも階段の腰板をつないだもので、脚はトロッコのレールを再利用して作りました。お金をかけなくても面白いことはできますし、逆にお金がなかったからこそできたことだと思います。お金がないと物は買えない、物が買えないと工夫する、工夫すると知恵が生まれる、そんな循環があると思うんですよね。便利なものを否定しているわけではないんですよ。だけど、ちょっと不便でも風情が楽しめるものとか、環境をあまり悪くしないものを工夫しながら使っていきたいんです。いろいろと探り探りにね。
お部屋に飾る花にしても、この地域にある野の花を生けるだけですごく素敵なんですよ。「登美さんは花をぽんと折ったら、そのまま挿すだけだよね」とみんなはあきれますが、「人間が余計な手を加えないほうがいい、自然というのはすでに完成されたデザインなのよ」といつも言っています。そういうことが大事かなと思うので、この阿部家はできるだけ宿の施設という色を出さないで、本当の暮らしを感じていただける場にしたいと思ってやってきています。
私はよく「家の声を聴く」という言葉を使うんです。私がこういうしつらえにしたいとか、ここは藍染めのこういうものを使いたいというのはあるんですけれど、常に家に問うてみるのね。「ここに和紙のタペストリーを掛けてみようかしら。どう思う?」と友人にたずねたら、彼女が「掛けてみたらいい。家が選ぶから」と言ったんですよ。私は掛けてみて、どこか似合わないなと思って外しました。判断したのは私かもしれませんが、それを選んだのはこの家だと思って、そういう感覚がすごく大事だと思います。
最近も奥座敷にお風呂場を作りました。そしたら、なんと、後から次々に分かってきたことなんですけれど、かつてこの家が武家屋敷だった頃、ちょうどそこに来訪者用のお風呂場があったらしいのです。意識もせずに元に戻ったんですね。ふしぎなもんですよね。この家の声を聴いていると、自然とこのような空間やスタイルになっていきました。
ある方がね、「人間だから嫌な人もいるんだけど、ここに来るといい人になれるんだ」とおっしゃったんですよ。理屈じゃなくて感じるものによって、人間のいい面が出るような場が作れたらいいなと思います。実際、この阿部家に泊まられて、「人生変わった」という方は結構いらっしゃるんですよ。
家に限らず、私には自分の考えを世に問うてみたいという気持ちがあります。私も同席させていただいて、台所で一緒に夕食をいただくなんて宿はほかにないと思いますけれど、「こういうのどうですか」と、自分が感じたものを具現化して、問うてみたいのです。私たち世代が残さなかったら、伝えなかったら、消えていってしまうものも多いですから。この家を舞台にして自分たちで物語を作り、泊まりに来てくださる方々と一緒にその物語を楽しんでいく。そのような感じがすごく好きなんです。
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