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乗り過ごして隣町へ行く自分をゆるして

今日は介護のため、バスで実家に来た。

バスに乗って、背もたれに沈みながら、斜め上の青と右と左で動いていく住宅の茶色を、ぼんやりと眺めてた。

バスは好まなかったが、最近ほんの少しずつ、好きになってきた。有難いから。

タクシーで2000円の距離を、バスは200円で運んでくれる。運転手は、多分出世欲がない。乗ってる人の多くは、おそらくお金がないか、時間がある。ちなみにこれは、しりねの得意な妄想なので、出世欲のある運転手さんや、お金があって忙しい乗客が読んでも、怒らないでほしい。

昼間のバスは、電車ほどのストレスを乗せず、だからって多くのワクワクや期待も乗せず、ただ普通の道をすすむから、いいなと思った。


ふと、バスで自分の降車場より先に行ったことがないことに気づいた。いつも降りるバス停の先は、隣の市なのだ。

川があるから、お隣といえど、生活圏の重ならない隣の市。今度、乗り過ごして行ってみたいなと思った。

でも、「今日は乗り過ごして隣町に行くぞ」と最初から決めていくのは、乗り過ごしの美学から逸れる。

バスの中、自分の降車場が近づいて、それなのに「まぁいっか。このまま乗っていてみよう。」と思う、あの、暇と時間と、それを愛せる自分が、愛おしいのだ。


思えば、学生時代はよく乗り過ごした。

電車通学をしてた高校生のころ。乗り換えのために二駅しか乗らない路線でも、隣の県にある終点まで行って折り返した。一時間半にわたる、なんでもない、ただの時間。もちろん、それだけ遅刻も沢山したけど、私には必要な時間だった。

大学生のときは、定期圏域を無視してあえて遠回りをした。降りなきゃいけない新宿駅を通り過ぎて、総武線に乗り続けて、三鷹で降りる。そのあと中央線で、つづきの道のりを走る。

知らない駅に行くのも好きだったし、知らない駅ビルのお店で、買わない雑貨を眺めるのも好きだった。読書をしながら、「まぁいっか、このままどこまでも行ってしまおう。」と思える、失うものを持ってない、無敵さが楽しかった。


社会に出たら、みんなは早歩きで、最初の頃は強く反発した。すぐに早歩きに馴染む友人達を見て、勝手に失望した。

それでも、いつの間にか私も早歩きができるようになった。早歩きは、落ち葉の音を聞きながらあえて枯れ葉の上を歩くような日々とはまた違ったけど、すごいスピードで景色が変わる楽しさがあった。

社会の仕組みを知り、私の見ようとしてこなかった部品に詳しくなるのは、それなりに面白さもあった。知らないで反発していた自分を恥じた。狭い美学で生きていたなと思った。


そして、早歩きに慣れきって、こうやって強靭な大人に、いろいろなものを感じない大人に、なっていくんだなと思った。それは、ある程度必要だと思った。

だけど、足がもつれて転んだ。

そして、バスの中でぼーっとする日常に戻ってきた。


昨日は産業医面談だった。

会社には一ヶ月のお休みをもらっていて「産業医面談のあとにまた連絡します。」と伝えていた。

多分、無意識に、昨日は焦っていた気がする。

ここからの身の振り方を連絡しなくてはならない。だけど、どうすべきか、自分でもわからない。連絡が遅れたら、それだけ上司も人員差配に困る。どんな結論を出すにせよ、連絡は早いほうがいい。だけど、考える気にならない。


どうすべきか、を置いておいてよいなら、何も考えないで済むなら、やっぱり、現職には長くいたくないなぁと思う。好きな人たちだったけど、歩むスピードが明らかに違うから。久々に、半開きの目で世界を見ると、美しいから。父にも優しくできるから。


だけど、いくつか、違う考えも頭をよぎる。

少しは縛られていたほうが、実は楽なことを私は知ってる。完全な自由は、冷たいこと。所属する場所があるのは、暖かいこと。

二つ目は、金銭面。生き抜くのに困らないお金は得られても、毎日カフェに呑気に行ったり、嫌いな料理を避ける外食をする余裕があるか、不安になること。

三つ目は、子どもについて考えてしまうこと。もし妊娠するなら、手当がもらえる正社員は、握りしめてなくてはならない特権なのかもしれない。

今の問題点は、それら一つ一つに対するカウンターを、自分の中で創り出して、結論を出せないところだと思う。


相変わらず頭の中の靄は晴れず、白い雲の中を彷徨い続ける。バスの車窓には、春の陽光がさしこみ、川の先は隣町へと続いている。

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