いやよいやよはいやなのよ。

 人間は、共通する「好き」なことよりも共通する「嫌い」によっての方が強く結びつく。らしい。

 これは野生動物の在り方として生存していくのに都合よくできていたためのようである。
 共通の「好き」は、例えば共通の異性を好きになったとしても、それはライバルにしかならず、利点とは呼べない。しかし共通の「嫌い」に対しては手を組み共闘できる利点がある。

 しかし僕たちは理性を備えたヒトである。理性を備えていることが誇らしいことであるのか否かは各々が存分に葛藤すればよいのだと思っているのだけれど、その葛藤の挙句には、例えば折角のそれをめいっぱい活用して、せめて「好き」でのつながりをこそ大切にできるような命でありたいと、うすぼんやりではなく割と確実な思考をしている僕である。

 悪口は良くない、と何となく教育されてきた人が多いかもしれない。
 何故か。
 ばれたらややこしいことになるから。それもあるかもしれない。
 自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない。そうかもしれない。
 でも僕は、ただただ「嫌い」を共有することは人間らしい部分を放棄しているから、のような気がする。そしてそう思いたい。理由は先述の通りである。

 けれどそれがネガティブなことであってもある程度のアウトプットは精神衛生上必要なこともある、というのが生き物のままならない部分でもあると思うのだ。僕の場合、家族にだけは「嫌い」を打ち明けることがある。それは僕にとって家族は「嫌い」を共有することで一緒に立ち向かってくれる唯一の存在であるから。

 なんだかきれいに締め括ろうとしているようだが、本当に我ながらきれいだと思うのはこのことが綺麗ごとではない今の僕の環境である。
 いと有難し。

 中野信子先生『「きらいっ!」の運用』。ご一読を。

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