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敦子の守護神:ショートショート

 良心を失ってしまうのが怖かった。それなのに、世に対する恨みは、日増しに強まっていく。一向に増えない預金残高に比してみれば、その増加速度は、指数対数的といってもいい。独身、アラフィフ、窓際族、ブス・・・マッチングサイトに登録してみても、あまりもののハゲとブサイクばかり・・・

 これでは敦子が鬱憤を溜め込んでしまうのも無理なかろう・・・

 抑えきれない憎悪のせいで、他人のささいなミスにも声を荒げる彼女は、当然の成り行きとして職場ではモンスター社員と陰口を叩かれ、厄介者扱いされ、切ろうにも切れない上層部を困らせていた。

 それでも彼女は、世界というものを信じたかった。世界が自分に幸福と愛をもたらしてくれるものであると・・・


 そのためには、良心というものが絶対不可欠だ。世界に対して良心を投げ込まなければ、世界から良心が投げ返されることはない。


 そんな信念のために、彼女の善と正義、弱者への執着心は凄まじいもので、たとえば殺人犯が公正な裁きを受けることさえ、それは耐え難いほどの不正義だった。

 抑えることもできないこの心にうごめく激烈な憎悪・・・ふつふつと煮えくり返り、ただただ激情と怒りが迸るだけである。どうして自分や身内に一切の害を加えていないあの殺人犯がこんなにも憎いのか、本来、実行に及ぶまえに、少しは反省してみるべきだったに違いない。しかしもう、この衝動を自力で止めることはできなかった。

 拘置所から裁判所へ移送される強姦殺人犯が、車から降りようとしている。

 敦子はカバンの中に用意した、入念に研いだ刃渡り20センチの包丁を握りしめた。その瞬間、敦子の全身を、途方もない快楽が雷電のごとく打った。痺れるような、ぞくぞくする破壊の快楽・・・それはあの殺人犯が、被害者を蹂躙し、めった刺しにした瞬間に味わったものと変わりなかったが、唯一にして絶対的な相違点があった。言うまでもなく、それは正義だった。あるいは良心だった。わたしの人生を正当化してくれるこの愛おしい善良な心・・・誰が否定する?なるほど確かにわたしは法を犯す。だけどわたしは歴史と国民の記憶に英雄として刻まれるだろう。面白い対極だった。どれだけ法の範囲で壮大な善良を行っていたとしても、道徳的な基礎づけもないまま法に触れれば、すでに彼は生きながらの死人であり、生前の素晴らしき偽善は何も評価されることがなく、ただ悪の側面だけが語られるのだ。

 わたしが生前、つまり法の内でやってきた善良なことといえば、正義に基づくネット誹謗中傷、道徳的良心に基づくネットリンチ・・・・どれもこれも些細な善で、人類安寧の永遠平和に寄与する度合いは微々たるもので(これらが積み重なって山となった瞬間、平和は訪れるだろう)、無礼者にモンスター社員とレッテル貼りされる始末だったけど、死後、わたしは国民感情に仕えた無名の兵士として、偉大に祀られるのだ・・・そう、わたしは死後に理解される文豪のように天才なのだ・・・!


 犯人の姿が見えた。敦子は反射的に飛び出していた。記者たちの騒めき、都道を走る車の騒音、これら音のすべてが静止した。感情も頭のなかも、雪の降り積もった白銀世界のような静けさだった。これから何かが起こるとは、とても思えなかった。ただただ、冷たい氷の粒がしんしんと降り続けるだけで、そのなかを真夏のような雷鳴が轟くのは、あきらかに自然的ではなかった。
 気がつけばもう、その極悪人がぐっと近づいて見える。男は気づいて顔を向けた。リアリティの溢れる目をぎょっと丸くさせて驚く姿に、まだ恐怖の色は浮かんでいなかった。

 「おい!やめろぉ!」

と背後から響いた警官の声が重くのしかかった。雷のように耳をつんざきはしなかった。山々に遮られた雪雲の上に、更なる雪を運んできた雲の声だった。

 男の前には、もう一人の警官が身を挺して立ちはだかり、命がけで極悪人を守ろうとしていた。なぜ?なぜ??なぜ罪なき被害者がそんな風には守られず、却ってこの男が守られなければならないのか?

 首元に強い衝撃を感じて、敦子はうめいた。斜め前方から駆けてきた警官に、ラリアットを食わされたのだ。それから何人もの警察官が瞬く間に押し寄せてきた。彼らに取り囲まれたときには、もう抵抗するだけの力が残されていなかった。なぜ?なぜ?なぜわたしはあんな風に誰からも守られなかったのか?そんな疑念に憑りつかれ、漲っていた力を吸い取っていった。
 勇気ある警官たちによって、法がこのとき、彼女をその中に押しとどめ、道徳善を犠牲にして、法的安定性を必須の存在条件とする社会経済を欲望と欲望の無秩序なぶつかり合いから守り、ひいては彼女自身が守られるという、あまりに観念論的な、非現実的に思える庇護、そして彼女が、ひいては彼女と同じ願望を抱く者が、法の想定する悪の側に陥らないよう守られたという、あまりに些末な、足しにもならない慈悲に、敦子は気づく力も残されていなかった。

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>