戦時下のスキー場は「遊びじゃありません! 鍛錬です!」と強調して生き残り図る
本日は2024年3月19日。スキー場もそろそろシーズン終了ですが、戦時下のスキー場はどうだったか。まずは上田市の上田電鉄株式会社が出したチラシをどうぞ。
ポスターの図柄をそのまま写したのでしょうか。「すぐに役立つ銃後のスポーツ」とあり、行軍する兵士と歩くスキーヤーを重ねたデザインです。年代は不明ですが、軍事を利用したポスターに戦時下の意識が見えます。日の丸コースというコース名設定も、まだまだ余裕を感じさせます。日中戦争初期でしょうか。
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こちらは、同じ上田電鉄株式会社の発行物「上田観光ニュース」の「昭和15年スキー号」です。1940年といえば、日中戦争も膠着状態のころです。
満州(現中国東北部)北部の国境警備に当たった「参謀将校某氏」の話として「戦場では行軍力の弱い程辛い事はない。どうやら食い付いて来るくらいでは物の役には立たない、モシ落伍でもすれば敗残兵にやられて終まう。」
「それが都会出の兵隊に多いが、タマタマ農村出の兵隊にも劣らない行軍力を示し、酷暑酷寒にも素晴らしい頑張りを見せる者が俗に『青白きインテリ』と云われる都会のサラリーマン出身の兵隊の中から見出される。その何れもが言合せた様にスキーヤーであったことだ」
「スキーが直接戦闘に利用されることは今の戦場では無いが、兵隊の一番大切な素質である行軍力と忍耐力を養成するスキースポーツは銃後にぜひ推奨しておきたい」と強調しています。
また、今回改めて見開き部分にも、軍人からの宣伝文句を載せているのを発見しました。
現在戦地で活躍中で、上田市にある上田飛行場の教官でもあった「陸の荒鷲荒蒔大尉」も「菅平ファンであり、教官時代には余暇ある毎に菅平にスキーを楽しんだものです」。また、上空の寒さもスキーで鍛えているので他の者よりもよほど楽だとか。
そしてスキーの徳が戦時日本に愈々交際陸離というべきと、軍のお墨付きをもらって堂々の宣伝です。
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最後に、諏訪市厚生課が太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年1月に発行した「霧ケ峰グラフ 新春版」を。表紙は普通にスキーヤーですが、ちゃんと戦地の友を想うことでバランスを取ります。
見開きでは「冬に鍛へよ!」「体力奉公」と、戦時下標語のぬかりはありません。諏訪大社も取り上げ、武将の護神として崇敬され、応召された兵士の武運長久を祈る献幟は「参拝者を驚異させる程林立しています」と、当時の雰囲気も伝わります。
最後のページは、観光とは生産と一体でなければならないとし、厳冬の諏訪らしい寒天作り、氷豆腐作り、氷餅作りを紹介。そして氷餅、氷豆腐は代用食としてーと売り込みを忘れません。戦時下にあっても、地域振興の営みは、このころ、まだまだ健在だったと伝えてくれます。
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