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「逃げるな、火を消せ」と、盧溝橋事件から間もない1937年8月、長野県全域の初の防空演習が行われていました。

 北京郊外の盧溝橋での日中両軍の衝突から交渉がこじれて日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月に先立つ4月5日、「防空法」と呼ばれる法律が公布され、10月1日から施行されます。まるで準備万端、日中戦争に備えていたような絶妙のタイミングです。
 防空法は、空襲があったときに民間人もこれに対応するため、組織や装備、備え、行動などを決めたものです。防空壕は敵が通り過ぎるのを待つまでの避難所ではなく、敵の爆弾が落ちたら飛び出して消火に当たれという一時的な待避所といった位置づけで、隣組単位での「民間防空」を強制しました。「逃げるな、火を消せ!」ということです。
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 長野県では、防空法の公布から施行の間に当たる1937(昭和12)年8月に県内全域での防空演習を行いました。事前にチラシを作って周知し、消火訓練や夜間の灯火管制などを含む本格的なものでした。

警報の種類やそれに合わせた行動を説明するチラシ
「国民は挙って国土の防衛に」と防空法の精神を強調
「長野県防空演習教令」より、演習の日程

 「昭和十二年度長野県防空演習教令」によると、高射砲や敵機を照らす探照灯なども準備し、演習では日中、発煙筒と催涙ガスの「ミドリ」を交ぜてガス弾投下に見立てた対応の訓練も実施する本格的なもの。バケツリレーなども行い、夜には大規模な灯火管制も行いました。そのために長野県がまとめた解説書「長野県防空演習灯火管制規定」がこちら。

灯火管制も一般家庭と特殊な場合に分けて解説

 例えば一般家庭で、灯火管制に合わせて電球を緩める時、グローブなどがない場合には竹などで器具を用意するよう、図入りで指示する細かさ。

丁寧ですが、どこまで役立つかは…

 そして工場の場合はどうするかなど、状況に合わせて細かく説明してあり、その中の1ページにこんな図が。

 炭焼き窯です(驚)
 まあ、炭焼き窯の点々とした光が都市の周囲にあれば攻撃目標になるといえばいえますが…そして、炭焼き窯から漏れる光のどこをどう遮るか、そんな方法もきちんと載っています。

ああ、面倒くさい。しかも炭の出来具合が分かりにくく

 こんなことまで、本気で必要と考えられていたのです。そして、気分を引き締める為「お祭り騒ぎにならないように」と最初に紹介したチラシに載っています。何しろ初のイベントですからね。

灯火管制に乗じた盗みは発生しています

 これより先、1933(昭和8)年に東京を中心とした関東防空演習が行われました。信濃毎日新聞主筆の桐生悠々は社説「関東防空演習を嗤う」で、本土に飛行機を招き入れるのは既に負けていることで、それを前提としているのはおかしいと批判。灯火管制も、赤外線などの科学力に頼ったり、方向や速度を計算すれば問題なく目標に到着して爆撃可能で、暗くしたら自分たちが混乱するだけ―など、今から思えば極めてまっとうな考えを示しました。

 しかし、軍部は猛反発して信濃毎日新聞に在郷軍人らによって圧力をかけ、桐生は退社。そして、桐生の指摘は省みられることなく、炭焼き窯まで灯火管制するに至ったのでした。既に桐生はおらず、信濃毎日新聞はこの長野県全体の防空演習について、敵を入れてはいけないが備えは必要、と軍に迎合する論調となり、連日、紙面を大きく割いて県民に緊張感を強いていました。
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 桐生の言葉の正しさは、この後わずすか7、8年で証明されてしまいました。一方、防空演習は国民の緊張感を高めたほか、上下の組織も整備され、後の大政翼賛会結成を経て、戦争への協力体制に反発することを許さない「空気」や「相互監視」、「同調圧力」を育んでいきました。
 今も、わけもわからずミサイルだと騒いで、国の指示に従うのが当たり前という空気を作り出そうとしている気がしてなりません。このくびきから逃れるのは、皆が横並びであるという自覚を持ち、おかしいことはおかしいと声を上げて、自分で考られるようになることだけでしょう。

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