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激戦中に届いた慰問文、丁寧にまとめた長野県出身の機関長

 こちら、長野県出身で激戦となった1943(昭和18)年のソロモン方面の戦闘を生き抜いた海軍の兵士が残したものです。国民学校の子どもの絵や作文、地元長野県の篠ノ井高等女学校のクラスがまとめて送ってくれたであろう和歌や絵…。そしてさまざまな種類の新聞などなど。艦隊勤務が幸いしてか、持ち帰ることができて自分でまとめたのでしょう。

分厚い「慰問記念」

 表紙のところには天皇の新聞写真。皇族は随所に出てきますので、やはり天皇の軍隊としての心持ちがあったとうかがえます。

1943年正月の紙面

 以下、今回は基本的に写真でご覧ください。国民学校の作文の末尾、必ず「さようなら」となっています。これは当時の作法で、いつ戦死しても思いを残さないように、ということで、「会いたいです」とか「元気にお帰り下さい」とかは厳禁でした。

噴火活動が活発な浅間山と、在郷軍人会小県郡連合分会のはがき

 小県郡、とあるので、長野県の上田市近辺の方と分かります。

小県郡出身の戦死者に印があり、知人だったのか
病院への慰問の様子か
絵が好きだった様子
自分たちが戦ったソロモン方面の新聞連載

 新聞は、故郷のさまざまな情報が載っていたので、好評だったようです。

軍服サーベルの七五三の様子を伝えつつ、武運を祈る手紙
時世を移す「隣組」の絵
さやうなら、で絞められた手紙。手紙は東京などのものもあった
美人のブロマイドはびっしりと
軍歌の貼り方、新聞との組み合わせと、まとめ方にセンスがあります
美人画にははがきも肉筆も
歌と絵を組み合わせて送ってきた篠ノ井高等女学校の慰問品
きれいなカキの絵
味わいがある雪だるま
元日の門前。防火用水、防火砂も用意して
出征兵士の家を示す表札も描いてありました
篠ノ井高等女学校(現・篠ノ井高校)の生徒の絵
国民学校生の習字も大切に
羽根突きや運動会でしょうか。裏は手紙になっています。
既成の慰問品も、せっかくなので活用。皆で楽しんだか。
最後は太平洋上の地図で

 慰問品は、相手を選ばずに送られてきたものと、故郷などから指定で送られてきたものがありました。紙類ならかさばらず、持ち帰れたのでしょう。そして無事帰れた戦闘を振り返り、貼り付けていった一兵士。再び戦場に出て、そして帰ってくることができたのでしょうか。帰ってきていてほしい、と思うばかりです。
   ただし、この慰問記録は、同時に子供や学生が戦争遂行のための歯車として組み込まれていたことを示す記録でもあります。二度とそんな状況とならないようにしていくのが大人達の役目でしょう。


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