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軍馬の調教、鍛錬をするのも農家の大事な「御奉公」でした

 表題写真と下写真は、日中戦争(支那事変)中だった1941(昭和16)年2月11日の紀元節に、長野県玉川村(現・茅野市)の農家が軍馬を差し出したことに対する感謝状です。紀元節に合わせたさまざまな表彰の一つで、軍馬として徴発された日とは無関係と思われます。特に陸軍を支えた軍馬が、農家の苦労の上に成り立って居たことを示す一つの証拠となっています。

軍馬を差し出したことに対する表彰状

 戦争に備えて普段から軍馬を育てさせるのは、特に日露戦争で日本の馬の改良が求められ、日露戦争後の1906(明治39)年から、大型化改良を目指した馬政第一次計画が始まったあたりからでしょう。
 1932(昭和7)年10月には、全国の民間の馬を把握する「地方馬一斉調査」が実施されています。当時の潜在的な馬の現状を知るための調査で、調査には在郷軍人会が携わっています。翌年のこれも紀元節に、調査関係者宛か、陸軍大臣と農林大臣連名の感謝状が出されています。

飼育者宛てというより、文面からは調査者宛てとみられる。

 馬政第二次計画が1936(昭和11)年度から改めて進められましたが、1937(昭和12)年7月に日中戦争が勃発し、大量の軍馬が大陸に送り込まれるようになったことから、翌年の1938(昭和13)年、陸軍から農林省に対して、軍用馬の保護と鍛錬などが求められます。1939(昭和14)年からは軍用馬と認められると「飼養補助金」がもらえるようになる軍馬資源保護法が制定されますが、同時に定期的な鍛錬とその進捗具合の点検も行われています。

飼養補助金交付申請書。軍馬資源保護法に基づく支給。
長野県が発行した、鍛錬の進度表
行軍や障壁通過などの標準を示している。

 軍用保護馬の飼育者には、鍛錬手帳が渡され、鍛錬に出た記録を付けています。そして農民の意識を高めさせるためか「御歌」や「馬は活兵器 鍛えよ馴らせ」とのスローガンも載っていました。

長野県発行の鍛錬手帳
こまめに鍛錬を繰り返した様子が分かる。後半、認印がないのは、進度達成か徴発か。

 また、農家の意識を高めるためか、軍馬資源保護法公布と同じ1939(昭和14)年4月7日が、初の「愛馬の日」に制定されます。社団法人帝国馬匹協会の出した畜産組合連合会あての書類によると「挙国一体、馬の愛護に関する国民精神を昂揚」するのを狙い、神社参拝や馬事功労者表彰、記念事業、愛馬宣伝などを実施するよう求めています。
 一方、「昭和2万日全記録⑤」(講談社)によりますと、1930(昭和5)年6月1日が馬の歳、馬の月、馬の日、だったことから「愛馬デー」が設けられていましたが、1939年、明治天皇が馬匹改良を命じた日が日露戦争当時の1904(明治37)年4月7日だったからという理由で、名称も日付も変更されたということです。ここにも、皇国史観の影響が出てきたのです。

「愛馬の日」設定に関する件の書類
実施事項の数々。最初に神社参拝があるところがポイントか。

 一方、馬の求められる役割も、日中戦争の中で乗馬の需要は減少し、荷物を運搬する輓曳力や持久力が求められるようになり、そのような指導や政策が行われていきます。日中戦争、太平洋戦争を通じて徴発された軍馬は「続日本馬政史」によると50万頭余りで、日中戦争初期にけがなどで一部帰郷できた馬を除き、ほぼ、すべてが日本に帰ってきませんでした。
 そして、本土決戦が叫ばれる中、最後に残っていた馬も徴発されていきますが、数をとにかくそろえる中では体格に問題があったり調教されていなかったりで、戦闘に役立たたない馬も多く、この面でも国力を使い果たしていたのでした。

 


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