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戦時下、報道用の物資を統制した政府ー新聞・雑誌の内容規制はより熾烈に(年表付き)

 初めての日刊新聞が生まれた1872(明治5)年からわずか3年の1875年、政府は新聞紙条例と讒謗律を設けて政府批判を封じようとします。これ以来、臣民に情報を届ける新聞や雑誌を操作しようとする政府の法律規制が、延々と続くことになります。
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 とりあえず、動きの激しかった日中戦争から太平洋戦争のころを見ると、2つの側面から規制が続いています。一つは不都合な情報の統制、もう一つは物資不足の統制です。時として、両者の性格を併せ持つ規制もしていくことになります。
 1937(昭和12)年7月に日中戦争が勃発、国民精神総動員運動が9月から始まります。翌年7月、新聞雑誌の用紙制限を開始。1941(昭和16)年には雑誌や新聞の統廃合が進む一方で、1942(昭和17)年末、雑誌は4割減ページとされます。
 内容にもどしどし立ち入り、内務省警保局は1938(昭和13)年9月、雑誌編集者らと懇談し、股旅物と通俗恋愛物に「反省」を求め「時局に即した健全なる娯楽読み物」を要望、婦人雑誌関係者とも懇談しています。
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 日中戦争がいっこうに片付かず、仏印進駐を巡って米国などとの緊張が高まってきた1941(昭和16)年は、特に規制が矢継ぎ早に出されていきます。
 同年7月26日、書籍雑誌発行にあたって企画届出が義務付けになり、8月に警視庁検閲課は婦人雑誌、服飾雑誌など雑誌類の整理を行い、例えば美術雑誌はこの時の第一次統合で38誌が8誌に、1943(昭和18)年の第二次統合で1944(昭和19)年から2雑誌にするとしています。
 1941(昭和16)年11月、出版文化協会は情報局と連携し婦人雑誌の全般を研究。「たくましい銃後婦人の建設」を目標に、来春2月号までに健全婦人雑誌にと要望します。一番販売数が多かった「主婦之友」を例にすると、1942(昭和17)年2月号表紙からは勤労女性としましたが、さらに4月号からは笑みが消えていて「歯を見せる笑顔を載せるな」との指示を受けた影響とみられます。

主婦之友1942年3月号(左)と4月号。違いは歴然。

 戦況が悪化の一途をたどり、本土決戦も視野に入りつつあった1944(昭和19)年10月、政府が決戦世論指導方策要綱を決め、米英への敵愾心を高めるよう指示します。主婦之友は1944(昭和19)年12月号以降、ページ欄外に「アメリカ人をぶちころせ」などと掲載、憎悪に満ちています。生き残りのためにやむを得なかったとしても、主婦之友社が戦争への協力を結果的に受け入れ、推進していく役を果たしていました。
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 同様に、新聞社も紙面や事業などで戦争を後押ししていた側面がありますが、それはまた、別の項で取り上げたいと思います。
 
 参考・新聞出版規制の主な流れ
 1875(明治8)年 新聞紙条例、讒謗律(政府批判を規制)
 日清戦争当時 新聞記事事前検閲令公布
 1909(明治42)年 新聞紙法 内務大臣に発売禁止などの行政処分権付与 
 1923(大正12)年 関東大震災で発令された勅令403号「治安維持ノ為ニスル罰則に関する件」ー流言飛語や朝鮮人虐殺関連記事の差し止めなどをしたもので、治安維持法の原点となります。
 1925(大正14)年 治安維持法(1928(昭和3)年に改正され、最高刑が死刑になります。
 1935(昭和10)年 政府主導で2つあった国内の通信社を統合、国策通信社の同盟通信社発足。国の方針や事件の海外発信を統一させるため。

 ―1937(昭和12)年7月7日 日中戦争勃発―
 1937(昭和12)年 8月、改正軍機保護法。軍事機密を知らずに模写した場合にも処罰されるようになる。このため、これ以後は名所や市街地の鳥観図が作られなくなる。
 1938(昭和13)年 2月16日、政府が「写真週報」発行。4月1日、国家総動員法公布。7月、新聞雑誌の用紙制限始まる。8月、雑誌の紙質を落とす。9月5日、内務省警保局と大衆雑誌編集者らが懇談。雑誌の内容に反省求める。
 1939(昭和14)-1940(昭和15)年 新聞の第1次統合。長野県では100以上あった新聞を廃刊し6紙に統合される。

長野県松本地方で廃刊された新聞の題字を集めたはがき。説明に「物資節約と統制の強化に順応して(略)一斉に廃刊」と無念さがにじみ出る。

 1940(昭和15)年 5月17日、政府が内閣に新聞雑誌用紙統制委員会設置を閣議決定。10月、警察の指導で長野県全域の青年団発行の時報・町村報145紙、雑誌60誌がすべて廃刊となる。
 1941(昭和16)年 1月、出版文化協会設立。書籍内容別の団体を統合して管理をさせる。内務省が映画雑誌を整理。1月11日、国家総動員法に基づく新聞紙等掲載制限令が発動され、政府や軍によって国策遂行に障害となる事項の掲載制限、禁止が可能になる。2月、内務省情報局が総合誌に執筆禁止者リストを内示。執筆段階で規制する。5月、卸会社を網羅した日本出版配給会社発足。雑誌書籍の配給統制。6月21日、出版用紙配給割当規定。6月27日、新聞雑誌の用紙配給減。
 7月24日、書籍雑誌小売商組合結成。新規業者は許可制に。7月26日、雑誌書籍発行に当たり企画届出義務付け(紙の配給と連携)。8月、婦人服飾雑誌の整理統合。16誌残り38誌廃刊。11月、内務省と連携した出版文化協会が婦人雑誌の内容全般に指示。

 ―12月8日 太平洋戦争開戦― 
 12月9日、言論・出版・集会・結社等臨時取締法公布。新聞などの発行は許可制になる。12月13日、国家総動員法に基づく新聞事業令。新聞事業規制と統制団体設置。事業の廃止を指示できるようになり、さらに新聞を統合させる根拠法となる。12月16日、国家総動員法に基づく物資統制令。紙を自由に国が押さえられる。
 1942(昭和17)年 新聞の第2次統合。長野県では3月末までに6紙が信濃毎日新聞1紙に。基本的に全県1紙となる。
 1943(昭和18)年 1-3月の出版用紙割当が単行本5割、雑誌4割減に。1月13日、内務省情報局がジャズなど英米音楽の演奏禁止リスト公表し、これに同調した英米語追放の動きが盛んに。雑誌の表題も例えば「キング」が「富士」に、「ユーモアクラブ」が「明朗」に。スポーツでも特に野球などで日本語への言い換え進む。2月18日、国家総動員法に基づく出版事業令。出版企業の整理統合と統制団体設立。

「ユーモアクラブ」から「明朗」へ。1940年9月号(右)と1943年12月号

 1944(昭和19)年 10月6日、政府は決戦世論指導方策要綱を閣議決定。11月、大政翼賛会が「一億憤激米英撃摧運動資料」を作成し、メディアへ提供する。それは、この通りにやれという指示と同義でした。
 1945(昭和20)年 3月、政府が「戦局に対処する新聞非常態勢に関する暫定措置要綱」決定。東京など大都市の新聞社が空襲で新聞発行不能になる事態を想定し、輪転機や人材の疎開を指示する。長野県では信濃毎日新聞が朝日新聞の人員や機材を受け入れることになる。4月20日、信濃毎日新聞と全国紙の持分合同開始。持分合同とは、各社が持っている読者(持分)を一つの新聞にまとめ、代表して新聞を制作、販売する方法で、長野県内で全国紙を読んでいた読者にも信濃毎日新聞が届くようになる。合併ではなく「合同」なので、信濃毎日新聞の題字下に各社の題字が入る。9月2日の無条件降伏後、10月で持ち分合同は解消している。

1945年8月15日の信濃毎日新聞朝刊。持ち分合同した各紙の題字も入っている。

 ちなみに持ち分合同をする前の信濃毎日新聞社では、応召に次ぐ応召で、支局の欠員を補充する人員にも困っていたということで、朝日新聞の記者らがこの穴を塞いでいました。

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