【埼玉教員超勤訴訟についての私見】

1. 本裁判の意義は問題提起

 本裁判は元埼玉県教員の田中まさおさん(仮名)が埼玉県に対して残業代240万円の支払いを求めて起こした訴訟である。この「240万円」という額にもかかわらず、3人もの弁護士がつき、事務局がメディアで発信し、最高裁まで上告するような裁判となっているのは、まぎれもなくこの裁判の目的が「社会に向けた問題提起」だからである。
 その目的に鑑みれば、本訴訟は極めて意義深かったといえる。例えば、一審のさいたま地裁では判決文の最後に以下のような文言が付言されている

本件事案の性質に鑑みて、付言するに、本件訴訟で顕(あらわ)れた原告の勤務実態のほか、証拠として提出された各種調査の結果や文献等を見ると、現在のわが国における教育現場の実情としては、多くの教育職員が、学校長の職務命令などから一定の時間外勤務に従事せざるを得ない状況にあり、給料月額4パーセントの割合による教職調整額の支給を定めた給特法は、もはや教育現場の実情に適合していないのではないかとの思いを抱かざるを得ず、原告が本件訴訟を通じて、この問題を社会に提議したことは意義があるものと考える。わが国の将来を担う児童生徒の教育を今一層充実したものとするためにも、現場の教育職員の意見に真摯(しんし)に耳を傾け、働き方改革による教育職員の業務の削減を行い、勤務実態に即した適正給与の支給のために、勤務時間の管理システムの整備や給特法を含めた給与体系の見直しなどを早急に進め、教育現場の勤務環境の改善が図られることを切に望むものである。

さいたま地裁判決文:https://trialsaitama.info/wp-content/uploads/2021/10/678384c33434330ec38d7c82a13c81bf.pdf

 したがって、本裁判は、「教師の長時間の勤務」の実態を示し、制度、政策的な変化の必要性を示したといえるし、裁判所も実態に改善が必要なことを「判決文」の中で認めているのである。


2. メディアの流す情報はほとんどデマ

 先にあげた判決文の内容にかかわらず、多くのメディアでは次の点が取り沙汰される。それは、「〇〇は教師の労働として認められず」という内容である。例えば、以下のような画像だ。(田中まさおさんのtwitterより)

 この画像ばかりが拡散され、「保護者への対応は教師の労働として認められない。だから、もうやらなくていいんだ」とか、「教師は定額働かせ放題」などという言説がまことしやかに流布されていく。
 しかし、実際の判決文を読むと、この画像の前に以下の但し書きが必要なことが分かる。「本件においては、(残業代の支払い要件である)校長の指示下で労働に従事した時間を特定する必要があるが、教員の日常業務は自主的なものと指揮命令に基づく部分が渾然一体となっているため、その峻別が極めて困難である。一般に教員の業務は日々異なるし、状況に応じて時々刻々と変化するものであり、本件においても提出された全証拠を精査検討しても日ごとの原告の業務内容を正確な把握はできず正確な労働時間の認定はできない。したがって、指揮命令に基づく部分についておおよその時間を概算し、その合計時間を労働時間として見ていくこととする」。その結果が先の画像である。
 したがって、「本件において」「極めて困難で無理を承知しながら」「記録を可能な限り精査し」「校長の指揮下に基づく労働時間を概算して算出した結果」が先の画像だという認識する必要がある。これが全ての教員の全てのケースに当てはまるわけではない。

3. 争点は3つ:給特法の解釈/労基法の適用/国賠法上の労務管理義務

 そもそも、本件の争点は以下の三つである。(裁判所の判決文では給特法の解釈を除いた二つが争点として挙げられている)
 まず、給特法の解釈についてである。給特法とは、教員には4%の給与上乗せするかわりに残業代を支払わないという趣旨の法律である。給特法の詳細については、こちらの記事などを参照されたい。今回の争点となったのは、「どの範囲の労働まで給特法を適用するのか」という点である。田中まさお氏は、給特法とは「超勤4項目」と呼ばれる特定の業務(例:行事や災害対応)に限定されるものであり、「教師の業務全てに適用できるものではない」と主張した。
 しかし、裁判所の判断は「教師の業務全てに給特法を適用する」とし、その上で「ただし、無定量な労働を許容する法律ではないため、心身の健康を損なうような働き方をさせない管理責任が校長にある」という解釈をした。
 この給特法の解釈したがい、本件では労基法37条(8時間を超えた場合に残業代を支払う)は適用されないとした。
 したがって、本件においては「心身の健康を損なうような時間外労働があったか」「その点に関する校長の管理不足が認められるか」が争点になった。これが法律でいうと(校長は公務員のため)国家賠償法が適用されるか否かという争点になる。
 そのような論を踏まえて、2節で示したような「校長の指揮に基づく労働時間の算出」等が行われ、その記録を踏まえた結果、本件では「心身の健康を損なうような時間外労働の実態」や「校長の管理不足」は認められなかった、という判決になった。その判決はさいたま地裁で示されたあと、東京高裁、最高裁においても見解が変わらなかった、ということになる。

4. 長時間労働是正のためには何が必要なのか

 教師の長時間労働はまぎれもない事実である。今回の訴訟においても、給特法制定当時と現在の教員の勤務時間を比較し、制度・政策の見直しが喫緊の課題である旨を指摘した。
 しかし、問題は残業代が支払われるようになったからといって長時間労働が是正されるのかという点である。この残業代と長時間労働の関係は「労務管理」という言葉で結びつく。つまり、残業代の支払いが発生すれば、管理職が適切に労務管理をする必要性が生じ、長時間労働が是正されるというロジックである。確かにその可能性はあるが、私には業務量の削減や職員数の増加なしに、管理職による労務管理の徹底だけで問題は解決するのかという疑問が残る。
 重要なのは長時間労働を引き起こしている原因は何かを考えることだと思う。その一つに管理職の「労務管理意識の低さ」も含まれるだろうが、同時に「業務量の過多」が挙げられるし、その業務は「多様な教育ニーズの出現(ICTや特別支援、キャリア教育など)」や「地域との連携の希薄化」「前例踏襲の学校文化」といった様々な要因によって発生している。これらの要因は学校や教育政策だけの話ではなく、「教育に願いを託す」社会の要因も含む。したがって、教師の意識などの心理要因、労務管理などの制度要因、教職員定数などの政策要因、教育的ニーズの高まりといった社会要因などが重層的に作用して長時間労働が発生していると考える。したがって、それぞれの問題を認識し、データと記録を収集しながら改善策をうち、効果検証をへて、さらなる策を再検討・再実施をするという基本的な問題解決の手続きが重要だろう。
 最後に、私は教師の業務には「自主性・自律性」が不可欠だと思う。なぜなら教師はその時々、一人ひとり異なる子どもに応じて「教育的判断」を下して業務を遂行する必要のある「専門職」だと考えるからだ。例えば、休み時間に子どもと一緒に外に出て遊ぶこと、放課後に学級便りをつくること、自身の授業準備を入念にすること、そういったことは「管理職によって命令された労働ではなく、教員の自主的な専門的判断に基づいた仕事」だと考える。このような「教育的判断」の余地を奪い、単なる労働に従事するだけの存在として教職を考えれば、間違いなく日本の教育はやせ細っていくと感じる。
 この問題を「教師に残業代が出る出ない」の視点だけでみるのではなく、教師という仕事の特殊性と、それに願いを託す社会の問題として見たい。


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