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「できて」普通か、「できること」が普通か。

「普通できるでしょ」
「普通分かるでしょ」
「普通…」

よく人は「普通」と言う言葉を使って、いかにも凡人らしいと自慢に似た説明する。

「普通」とはなんであるか。

普通が使われる事には、「できるか否か」「知っているか否か」の主に2点が取り上げられる事が多い。

「できるか否か」の問題に対しては、できる基準とはどこであるのかと言う明確なモノがない限りは一概に等しく判断できない。

「知っているか否か」の問題に対しても、知っているの基準はただ知識をマルバツとして回答できるものと、そこに「理解」を含むかどうかで正しくは判断しきれない。

要は、ある基準が存在し、その基準を満たすかどうかが「普通」を形作る何かとなる。


では、その基準を満たしているのは「今」の話か、それとも「今まで」の話か、「人生総合的にみた」話か、どれであるだろうか。

「今」の話であるなるば、過去できたことを除外し、また未来できるだろう可能性も全くないこととも言える。

「今まで」の今現在以前の全てを含んだ「過去」であるならば、何かしらの証拠さえ存在すれば、その「普通」となり得る基準を満たすか判断する事ができるかもしれない。

「人生総合的にみた」であるなるば、人ならばできるだろう事であり、やればできるだろうと言う可能性的な問題となる。

おそらく、「人生総合的にみた」が正しいだろう。生まれたばかりの赤ん坊に、このカラーボックスを組み立てろとは言わないだろうが、大人にであれば力的にも単純な構造理解も容易くこなせる事は「普通」の基準となる。


まとめ

今できることが「普通」なのではなく、
いつかできることが「普通」である。

大人が大人のまま子供に大人を求め、
子供が子供のまま大人に子供を求めるのは、
少々の時間差を考慮していない矛盾からなる「普通」の誤解である。


おわり


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