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メモ|NOSTALGIBLUE|思い出は青色くくり。

61 世の縦軸、ふんどしからハミ出た夏。

ふんどしが来たぞ。
周防監督作品を網羅しているかというとそうでもないのだけれど、1989年の『ファンシイダンス』、1991年の『シコふんじゃった。』、1996年の『Shall we ダンス?』の3作品は何度も見ている。VHSテープでいうところの、擦り切れるほどよく見た作品だ。とくに『シコふんじゃった。』と『Shall we ダンス?』は、毎年夏がやってくると必ず見てしまう、自分にとっては日本郵便からくる書中見舞いよりも夏な季節のグリーティングカードだ。なぜこの作品たちを何度も見てしまうのか。それをメモ(NOTE)しておきたいと思った。とりあえず、1991年制作で翌年公開の『シコふんじゃった。』は、なんといっても主演の本木雅弘さんをはじめみんながみんな、ふんどし姿(まわしをしめる)を晒していることでも話題になった。ときは角界の空前絶後の若貴ブーム。それにあやかったかどうかは置いといて、当時のトップアイドルだった宮沢りえさんが1990年度版のカレンダーでふんどし姿を披露。これが売れに売れた(後に貴乃花とふんどし会見いや婚約会見するのは出来すぎか)。そして、樋口可南子さんの日本初のヘアヌード写真集で、お咎めなし!(ヘアは芸術!)の既成事実を見事に立証した篠山紀信さん。その第二弾となるヘアヌード写真集『white room』を、1991年8月にリリースしたのがモックンこと本木雅弘さんだった。

ふんどしっていうわかりやすいアイコン。
このふんどしストーリーはまだまだある。ここまでもいろいろと衝撃で、今では考えられないほど紙媒体(紙の本)がベストセラーを叩き出していたのだけれど、1991年11月、事件は起きる。人気絶頂の真っ只中、しかも18歳というフレッシュさ(落ちぶれて出し惜しみしてきた末の脱ぐしかない状態からほど遠いところ)で、宮沢りえさんがヘアヌード写真集『サンタフェ』をリリースしたのだ、してしまったのだ。これが飛ぶように売れた。そんな、ふんどしから始まった一連の脱ぎっぷり狂騒曲のもうここしかないよ!というタイミングで『シコふんじゃった。』は公開されたのだった。個人的には、日本のバブル経済がはじけとぶ断末魔の時代に、16連射のプロゲーマー高橋名人以上のBボタンダッシュで弾けていたのが宮沢りえさんと本木雅弘さんだったと思う。それで、ふんどしじゃなくて、ま・わ・しの『シコふんじゃった。』なんだけれども、これが生ケツのプリケツとかが気にならなくなってしまうほど、良いストーリー。単純明快、時代劇でいうなら勧善懲悪、わかりやすくて良い。(おいおい、ケツが出てるぞ!)というツッコミと同じくらい(そうね、そうやって相撲部が盛り返すんだよね!)っていう、(おいおい、ウーロンハイ3杯とおかず1品しか頼んでないぞ!)という酔っ払いの確認と同じくらい(そうね、だから2000円ぽっきりね!)っていう明朗会計。

ふんどしに見え隠れする情緒。
この映画はそのスッキリさをブラさないようにしつつ、相撲部あるあるとか、大学生あえるあるとか、夏休みあるあるなネタを散りばめている。それが面白い。なんていうか、普段はそんなヘンテコな帽子被らないのに異国の旅先ではなぜかバザールなんか歩いているとついついヘンテコな帽子を買ってしまって現地人気分に浮かれてしまう、そんな日本人トラベラーの浮かれ帽的なあるあるが散りばめられているのだ。それが楽しい。そして、少しせつない。見た目にわかりやすいふんどしとかケツとか夏とか、そんなもののオンパレードなのに、『シコふんじゃった。』には情緒がある。これは、この後の周防監督作品『shall we ダンス?』にも引き継がれていくものだけれど(だからこの2作品をまとめて毎夏見るのだけれども)、ある夏に体験した、一抹のさみしさや疎外感(取り残された感)を再び脳裏に去来させるせつない情緒がある。その象徴的なシーンをひとつ。相撲部の穴山監督(柄本明)の故郷の田園風景。夏休みは浮かれ帽な仲間たちと沖縄へスキューバーダイビングしに行くつもりだったシュウヘイ(本木雅弘)は、相撲部の夏合宿に連れてこられてしまった。緑が風に揺れる土手に寝そべって見上げる青空。真夏の太陽の下、沖縄のビーチでビキニ・ギャルと戯れているはずだった。それなのに、となりには、デブのくせに相撲さえ取り柄にできない冴えないメガネのタナカ(田口浩正)がいて、風が時折そよぐだけの田園風景をぼーっと眺めている。まったく楽しくない状況。真夏だというのに、浮かれ帽をかぶる場面がない。

ふんどしからハミ出した放送コードじゃなくて情緒。
こうして改めて書いてるだけで、イケてない側のアイコン・タナカだけでなく、イケてる側のアイコン・シュウヘイも、今の時代では恥ずかしい感じ。これは、青春真っ只中って感じで夏を謳歌してた我々も、当時の写真を掘り起こしてみると、ヘアスタイルからファッションや言葉使いまで、恥ずかしくてこそばゆくなってしまうのと同じ。ようは、どんぐりの背比べというか、同じ時代の同じ夏を生きたものは大勢で考えたらひととくくりの蝉のようなものだということだ。これは悪い意味じゃない。そのときに、わずかな容姿とかお育ちとかコミュニケーション能力の差で、イケてるイケてないの優劣をつけたつもりでも、実はもっと長い時間軸で考えたら、そんなに気にすることでもないんじゃないかってこと。たしかに、あの夏にスキューバ・ダイビングに行けずに、(つまんねぇーなー)と田園風景の中をふんどしで走らされたシュウヘイもまた、そんな夏を良い思い出にしているのだった。そしてタナカに対してリスペクトし、微笑むのだった。ビキニ・ギャルとの軽快で軽薄なアバンチュール以上の、大学院生との四股踏みをするのだった。(夏って、なにはなくても夏だよなー。どこにいたって夏だよなー。そう思えてしまうのも夏のせい)。そんなことを、たった103分で実感させてくれる。それが自分にとっての『シコふんじゃった。』なのだ。なにもない、派手なことはなにもしなかった夏だったとしても、焦る必要も損した気分にもならなくていいよって、『シコふんじゃった。』は言っている。ふんどしは物語っている。ふんどし。ヘアヌード。バブル。派手な狂騒の中で、とても素朴で情緒あることをこの映画は教えてくれた。そして、それは『shall we ダンス?』へと引き継がれていく。61


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