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小澤メモ|NOSTALGIBLUE|思い出は青色くくり。

19 遠藤文学『沈黙』のラフノート『切支丹の里』。

1枚の踏絵を見た感動から始まった紀行・作品集。
『切支丹の里』 (中央公論新社1974年)は、長崎から島原、そして平戸、島の小さな集落にいたるまで作家・遠藤周作さんが、隠れ切支丹の跡を追うようにして歩き取材を重ねた自伝的エッセイ。小説の取材メモやアウトロ的なものとして、興味深く読むことができる1冊だ。作者は、もともと長崎という地にゆかりはなかったという。しかし、療養後、ふらりと訪れた旅先には、その後の作家人生を決定づける出会いがあった。心奪われた1枚の踏絵。その踏絵には、なんと黒い足跡らしいものがあった。それもひとりのものではない。多くの人びとが踏むことによってついたような跡だった。この出会いが、後に傑作『沈黙』を生み出すことになった。この本は、『沈黙』上梓後に出版されたものだが、収録されている遠藤周作さんの足跡のほとんどは『沈黙』が生まれるためのものだったりする。

あとを追う旅。
山奥にひっそりとある教会や、殉教した人びとが眠る場所、司教が布教に訪れた海岸……。この本を読むということは、観光とも、またアニメの聖地巡礼や映画のロケ地探訪などとも違う、遠藤周作さんのあとを追って歴史の旅をするということになる。種子島伝来から鎖国とキリシタン弾圧など、小学校の社会の教科書で目にしてきたこと。日本人として知っている歴史の一片。そういうものを確認する旅なのである。例えば、長崎の西坂公園の二十六聖人像。豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、ここで宣教師と修道士、そして信者など26人を処刑した。3歩から4歩の感覚で東から西へ1列に並んだ26の十字架にそれぞれ縛られた彼らは、聖歌を歌い、あるいは今際の際まで群集に神の道を説いていたという。この丘を初めて訪れたときのことを、作者はこう言っている。「26の十字架に火がつけられ、群集がそれを取り囲んでいた静寂を思い浮かべた。人びとが押し黙り、それぞれ畏怖や尊敬や侮辱の念をもってこの殉教者の最後を見届けようとした瞬間」。

西坂公園の丘。強い者と弱い者とのそれぞれ。
作者は続ける。 「こうした信仰をまっとうする強かった殉教者に畏怖と憬れとをもちながら、同時にこのような強者になりえなかった転び者(裏切り者や棄教者)について考える。転び者の殉教者に対する言いようのないコンプレックスについて考える。そこには羨望と嫉妬だけでなくときには憎悪さえ混じっていたかもしれない。彼らはたとえ社会から軽蔑されなくても、自分では自分を軽蔑せざるをえなかったはずだ」。これが、その後に書くことになる傑作の重要な視点になったのだという。もしかしたら、その群集の中にも、そして今を生きる人々の中にも、弱者(『沈黙』に登場するキチジロー)がいるのだろうと思う……。ちなみに、長崎は素晴らしいビーチもいくつかある。思い出すのは、長崎県の上に位置する平戸島。ここにも隠れ切支丹の里があり、多くの殉教者が眠っている。そして遠藤周作さんの足跡もある。その島の山々を突っ切って海を目指す。途中に名もなき教会が佇むようにしてあった。地元民に根椰子と呼ばれるビーチに着くと、誰もいない真っ白な砂浜に小さな波が打ち寄せられていた。静かで美しかった。その昔、迫害され身を隠さねばならなかった人びとは、この砂浜で何を願い、祈ったのだろうか。そんなことを想像した。でも、その数分後には、バシャバシャと音を立てて美しい波間に飛び込んでいた。夢中になって泳いで遊んだ。とても楽しかった。19

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