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戦国時代の同盟

戦国時代では、各大名同士が同盟を結ぶことが多くありました。
共通の敵がいるときや、それぞれ別の敵に集中するときに効果的だからです。
同盟は一方の大名の姫を嫁入りさせておこなう、婚姻同盟の形が多く選ばれました。
大事な娘を人質として送り、信頼関係を築くのです。
にも拘わらず、同盟は同盟相手の裏切りで崩壊することも珍しくありません。

今回は、そんな戦国時代に結ばれた有名な同盟を紹介します。


織田と徳川(清州同盟)

清州同盟は、織田家徳川家の間で結ばれた同盟です。
同盟を結んでいる相手を裏切ることも多い戦国の世では珍しく、20年間も継続された珍しい例です。
そんな清州同盟について見ていきましょう。

同盟の成立と背景

清州同盟の成立は、1560年の桶狭間の戦いの後です。
この戦いで織田信長が今川義元を討ち取ったことにより、徳川家康(松平家康)は今川家の支配から独立しました。
家康は織田信長と同盟を結ぶことで、東方の安全を確保し、信長は西方への勢力拡大を図ることができました。

大まかな勢力図

同盟の効果と展開

清州同盟のおかげで家康は東の今川家に対して優位に立ち、領土を取り戻すことに成功します。
一方の信長も美濃を征服し、京に向かう道を開くことができました。
信長が京を支配した後も、この同盟は効力を持ち続けます。
徳川家が武田勢力を抑えることで、織田家の勢力拡大を支えました。

大まかな勢力図

同盟の内容

清州同盟は、攻守同盟という種類の同盟関係にあたります。

攻守同盟とは「片方が攻め込まれた時に、もう片方が助ける」というものです。
「ピンチの時に助け合おう」というわけですね。
実際に両家は互いに援軍を送り合っており、有効な働きをしていました。

同盟の終焉

清州同盟は20年間も継続されました。
裏切りがはびこる戦国の世では、非常に珍しいケースです。

そんな織田家と徳川家の同盟は、信長の死後も継続されます。
本能寺の変で信長が亡くなり、織田家は次男の織田信雄と三男の織田信孝で分裂。
家康は信雄と同盟を継続しました。

1584年、豊臣秀吉と信雄の間で戦が起きます。(小牧・長久手の戦い)
この際に家康は信雄に援軍を送り、豊臣秀吉との戦に挑みます。
戦は信雄と家康の優位で進みますが、信雄が単独で秀吉と和議を締結。
戦の大義名分を失った家康は、兵を引くしかなくなり停戦となります。
その後、信雄も家康も秀吉に臣従。
これにより20年間続いた清州同盟は自然消滅する形で終わりました。

武田・今川・北条(甲相駿三国同盟)

甲相駿三国同盟は、武田家・今川家・北条家で結ばれた同盟です。
戦国時代を代表する3つの勢力による同盟で、関東・甲信・東海地方で大きな影響を与えました。

同盟の成立と背景

それぞれ強大な勢力を誇る武田家・今川家・北条家の三家は、それぞれの領土が接しており同盟と戦争を繰り返していました。
しかし状況に変化が訪れます。

信濃へ領土拡大をし、上杉との戦に備えたい武田家。
上杉を撃退し関東の支配を安定化したい北条家。
西の織田とも敵対しており、敵勢力を減らしたい今川家。

三家とも敵を減らしたい利害が一致し、同盟を結ぶこととなったのです。

大まかな勢力図

同盟の内容

甲相駿三国同盟は三角トレードのような形で、姫を交換し成立しました。
三勢力による同盟ならではの出来事です。
具体的には以下のとおりです。

  • 武田信玄の嫡男に今川義元の娘が嫁ぐ。

  • 今川義元の嫡男に北条氏康の娘が嫁ぐ。

  • 北条氏康の嫡男に武田信玄の娘が嫁ぐ。

同盟の種類としては、不可侵条約が最も近いです。
「三家の間で戦をしない」というものです。
この同盟は10年以上続きました。

同盟の崩壊

甲相駿三国同盟は、武田信玄が同盟を破り今川家を攻めたことで崩壊します。

桶狭間の戦いで今川義元のが戦死し今川家は弱体化。
独立した徳川家(松平家)との戦も続き、立て直しの気配もありません。
内陸国でかねてより港が欲しかった武田信玄は、これをチャンスととらえます。
甲相駿三国同盟を破り徳川家と共に、今川家を攻めます。
怒った北条家が今川家に援軍を派遣したことで、甲相駿三国同盟は完全に崩壊しました。

徳川・武田(甲三同盟)

桶狭間の戦いの後に結ばれた、徳川家(松平)と武田家の同盟です。
上記の甲相駿三国同盟が、崩壊したきっかけの同盟です。

同盟の成立と背景

今川に奪われた領地を奪い返したい徳川家と、港が欲しい武田家の思惑が重なり、締結されました。
これにより今川家は、東西から侵攻を受けることになりました。
この侵攻に耐えられず、戦国大名としての今川家は滅亡します。

大まかな勢力図

同盟の崩壊

徳川も武田家も目的を果たして大団円…とはなりませんでした。
武田家が同盟締結の際の約束を破ったのです。
当初の約束では徳川家は遠江を、武田家は駿河を支配することになっていました。
しかし武田信玄は遠江まで侵攻し、支配します。
私の予想ですが、「まだまだ弱小大名であった徳川が舐められていた」ということなのでしょう。

これにより同盟は破綻。
短期的な同盟だったため、同盟というより密約の印象が強いです。
世界史における、独ソ不可侵条約と近いイメージと言えるでしょう。
その後、徳川と武田は、長きにわたる敵対関係が続きます。

織田・浅井

桶狭間の戦いの後に、浅井家と織田家で結ばれた同盟です。

同盟の成立と背景

当時の織田家は、美濃を治める北の斎藤家に苦戦していました。
浅井家と同盟を結べば、美濃を南と西から攻められるメリットがあります。
浅井家としても、南の六角家との戦いが長く続いており、援軍が欲しい情勢でした。

利害が一致した両家は同盟を締結。
その際、信長の妹・お市の方と浅井家当主・浅井長政が結婚しています。

大まかな勢力図

その後、信長が美濃を平定。
南近江の六角家を攻撃し、甲賀に撤退させることに成功します。
織田信長はそのまま上洛を果たし、浅井家も長年の天敵であった六角との戦いい一区切りがつきました。
これにより、浅井家と織田家の同盟はより強固なものとなりました。

しかし、この同盟に危機が訪れます。

同盟の崩壊

京を支配した織田信長は将軍に代わり、各地の大名へ上洛を要請したのです。
そのなかには、浅井家と長年親交のある越前・朝倉家も含まれていました。
朝倉家は信長の上洛要請を拒否。
これに対し信長は朝倉家を討伐するため挙兵。
越前に向け侵攻を開始します。

この侵攻に困ったのは浅井長政です。
織田家と同盟を取るか、長年親交のある朝倉を取るか。
二者択一を迫られたのです。

大まかな勢力図

浅井長政の下した決断は、織田家を裏切り朝倉家につくものでした。
織田家と浅井家の同盟は破綻したのです。
なぜ長政が朝倉家につくことを選んだか、はっきりした理由は分かっていません。
一説では、同盟締結時に「朝倉家への不戦の誓い」を条件としており、信長がその約束を破ったからとも言われています。

金ヶ崎という場所で、援軍として来るはずの浅井軍を待っていた織田軍。
そこに浅井家の裏切りが知らされます。
この時の逸話に、長政に嫁いだお市の方に関するものがあります。
お市の方が、金ヶ崎にいる信長に両端を結んだ小豆袋を送ったというものです。
信長はこの小豆袋を受け取り「織田軍はこの小豆袋のように挟み撃ちにされ出口が無い状態です」と、お市の方が伝えていることに気づいたそうです。

この逸話は江戸時代に作られたものである説が強いですが、織田軍が挟み撃ちにあっていたとは本当です。

信長は何とか京へ逃げ帰り、軍を再編します。
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合の戦となり、織田・徳川連合軍が勝利。
しかし浅井・朝倉も負けはしたものの滅亡を免れ、その後も織田との敵対関係が続きます。

まとめ

同盟関係からは、大名たちの狙いや思惑を感じることができます。
「港が欲しい」「援軍が欲しい」「敵に回したくない」など、それぞれの考えが透けて見えるのです。
そのような大名の考えを念頭に置くと、同盟を継続した理由も裏切った理由も想像できる気がします。
同盟を続けた方が敵が減ったり、同盟相と戦わずに済む打算さ。
同盟を結んだ理由が薄くなったり、同盟を裏切った方が目的を達成できる状況であれば、迷わず裏切る冷酷さ。
戦国大名のリアリズムと残酷さ、その両方が同盟関係から見えてくるようです。


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