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戦国の悲しき友情 ~甲斐宗運と相良義陽~

戦国時代は下剋上の時代。
裏切りや打算が当たり前の時代のため、友情などという余裕はなかなか持てませんでした。
そんな中でも九州に友情を大事にした二人の武将がいました。
甲斐宗運と相良義陽。
この二人が辿った悲しい友情の物語をご紹介します。


負け知らずの坊主武将:甲斐宗運

甲斐宗運(かい そううん)は戦国時代中期から後期にかけて活躍した坊主武将です。
肥後国(熊本県)を治めた阿蘇家に仕えていました。
頭の切れる優秀な人物で、小勢力である阿蘇家が存続していたのはこの人のお陰と言っていい。
生涯六十回以上の合戦で負けたことがない、戦上手な武将でした。

幼いころから苦労人:相良義陽

相良義陽(さがら よしひ)は戦国時代中期から後期にかけて活躍した武将です。
肥後国(熊本県)を治めた相良家の当主で、幼くして当主となり内乱を鎮めた人物。
大名としては小勢力で、幕府に献金などをして存続を図っていました。

盟友となる二人

当時の九州は南の島津家、東の大友家、北西の龍造寺家の三強体制でした。
このような時世を生き抜くため、阿蘇家と相良家は大友家に従属。
阿蘇家と相良家も不可侵の同盟を結びます。
これを機に甲斐宗運と相良義陽は親しくなり、盟友と言える関係になります。

当時の大まかな勢力図

島津家の躍進

しかし状況が変化します。
大友家が島津家との戦に敗れて弱体化。
危機感を覚えた阿蘇家は龍造寺家に鞍替えます。
一方の相良家は領地が接している島津家の次の標的にされ、侵攻を受け敗北。
息子を人質に出し、島津家に従属します。

友との戦い~響野原の戦い~

義陽は主家となった島津家から、阿蘇家の領地への侵攻を命じられます。
友情と命令に板挟みとなった相良義陽ですが、阿蘇家侵攻のため出陣。
出陣した義陽は、わざと守りにくい地にわざと陣を布きます。
向かいの陣にいた宗運は驚くが、「義陽が死を望んでいる」ことをさとります。
義陽は友との同盟を破ったことを死で償い、命令には従い主家にも筋を通すつもりなのです。

戦が始まっても相良軍は大した抵抗もできず敗走。
義陽は本陣にて机に座したまま、刀を抜くことなく戦死しました。
宗運は義陽の首を前に涙を流しながら合掌し、「三年以内に阿蘇家も滅ぶであろう」と言ったそうです。

相良家の主家である島津義久は、このことを知ると相良家の扱い改め義陽に対しては感状を与え讃えています。

まとめ

友情と命令に板挟みになった相良義陽は、死ぬことでどちらにも筋を通しました。
甲斐宗運も義陽の心情を察し、相良軍を攻めます。
この戦いの2年後に宗運も亡くなり、阿蘇家は島津家によって滅ぼされています。
戦国時代の無常さを感じる出来事です。


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