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日本には「さようなら」がある

「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」

         竹内整一著 ちくま新書

肺がんの告知の頃、偶然に手にしたこの本。
ぼくは、以前から
「人生には偶然は無く、全てが必然となる」
と考えてきた。
だから、本屋でこの本を手にとったことと、
がんの発現には関係があると思った。 

何故なら、ぼくには「さようなら」を伝える必要があったから。
ぼくは、誰に、どのような「さようなら」を伝えるべきか。

その時のばくは、5年前に同じ肺がんで逝った親友のことを想っていた。
彼は、当時遠く離れた地に居たぼくに自分のがんのことを知らせなかった。

さらばよと 別れし時にいはませば
我も涙におぼれほれなまし

あの時「さらばよ」と別れてくれたなら
私も涙に溺れることができたのに、
あなたははっきりと言わなかったから、
私は悲しむこともできない

何故、あいつはぼくに「さようなら」を言わなかったのか
ぼくは、あいつの親友ではなかったのか。
いや、親友だからこそ、
あいつは言わなかったのか。
元気な記憶だけを遺したかったのか。

遺してゆく大切な人に、
そんな煩悶を残したくはなかった。
だからぼくは、この本で「さようなら」について考えた。

別れの言葉

世界の別れの言葉には、
およそ3つに分類されるという。

① Good-bye Adieru Adios       
神があなたと共にあらんことを祈る
② See you again   Au revoir         
また会いましょう
③ Farewell                                       
お元気で

①は神の加護を祈り
②は再会を願い
③は未来を祝福する言葉に分類される。
ただ、日本人だけは「さようなら」
=「そうならなければならないのならば」
と別れる。 

なぜ日本人は、このように
「さようなら(ば)」「それでは」
といった言い方で別れてきたのだろうか。
その別れ方が、世界で一般的でないとすれば、
それは、日本人の、
人生や世界のどのようなとらえ方、
また他者のどのようなとらえ方
に基づいているのだろうか。
 「日本人は、なぜ「さようなら」と別れるのか」はじめに

そして、この本の中で
ぼくは、精神腫瘍科医が「死生観」を学ぶことを勧めた理由を知る。

”よく闘病記などが書かれるが、そこにあるのは、ただ病気そのものに立ち向かうために書かれているというよりは、自分や家族で「自らの人生の集約の仕方に見極めをつけ」「よりよき死を手に」入れようとする営み。

つまり、それは、死というものを前にして、自分自身の生を、何らかのかたちで集約し、完成、完結させることであり、そのことによって、自分自身の死というものと折り合いをつけ、それを受け入れやすくするということ。”

ぼくは、「死生観」を学ぶことで、
「死を受け入れる準備」をすることに
改めて気づくことになった。



        

さようならの理





   

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