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「書く人」だけ、を脱したい(ループ)

こんにちは。2月も中旬になり、激しすぎる三寒四温に振り回されるこの頃ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?

私と言えば、深刻な体調不良と納期ラッシュが重なった時は「もはやこれまでか」と思いましたが、全体を俯瞰すれば仕事は順調です。プライベートでも時々嬉しいことや楽しい思いをする機会があり、これ以上高望みしようという気になりません。

それから、いつも、同じ話。

ところが、相変わらず、前回の投稿と同じようなテーマで悩み続けています。

「自分はライターとして生きていて、本当にいいのか?」問題です。
ライターとしての仕事に満足はしており、最近は売上の面でもようやく安定飛行(低い空域ではありますが……)が見えつつあるのですが、そうした経済的な問題意識ではありません。

私は本当に誰かを「応援したい」のであれば、手段をライティングに限る必要はありません。とりあえず、応援したい相手の困っていること、求めていることに耳を傾け、今の自分にできることを考えればいい話です。それが翌日に掃除を手伝うのか、店番をするのか、本来ならばどんな形にもなり得ます。

たまたま、ライティングをすることになるかもしれません。そうは言っても、高度な専門職でもあるまいし、コミュニケーションの入り口から「ライターとして」と条件を狭めることに何の意味があるのでしょうか。

職業以前に「労働力」でありたい

自分はライターである以前に、「自由業」とも訳されるフリーランスの個人事業主であり、一般に「働き盛り」と称される年代の男性なのです。

器用なほうではないので、実際に戦力になれるかは確約できません。それでも、何しろ人手不足の現代ですから、「書く仕事」をボサ―っと待っているよりも、やることは見つかりそうです。ライターというのは、私が差し出せる労働力のいくつかの方法のうちの一つに過ぎません。

「役に立つ手段を職業で限定している場合か問題」2024年1月13日投稿

「ライター」から想起される守備範囲の狭さ

公の場に出ていって自己紹介をすると、どうしても「ライター」と書かれた名刺を差し出すことになります。相手の方にも「へぇ、フリーのライターさんですか」と納得していただけるのですが、そうしたコミュニケーションに納得しきれていない自分がいるのです。

恐らく背景には、「ライター」という言葉から想起される職業イメージが、極めて狭く偏っているからではないかと思います。直訳すれば「書く人」です。何かを書くことで解決できること、と考えれば、一般的に「情報発信」に関する領域に限られますが、情報は「掃いて捨てる」ほどに氾濫しています。多すぎるものをさらに増やそうとする職業と考えると、何となく虚しいものです。

だからこそ私は、ライターとして仕事に向き合う際、どんなオーダーであっても掃いて捨てられるような(ただそこにある以上の意味を持たないような)記事は書くまい、という意思を持って臨んでいます。とは言え、それはあくまでも個人的な職業人のプライドです。知らない人たちから見れば、「掃いて捨てられる」情報を量産する一人に過ぎません。他者からの見え方ばかりでなく、時には自己認識ですら、「世の中に求められていない職業にしがみついている私……」などと歪みがちです。「生成AIよ、いっそひと思いにぶった斬ってくれ!」と。

中途半端な慈悲は要らない……

異なるアプローチでも社会と関わりたい

実際にはお客様からご依頼をいただいて、正当な対価をお支払いいただいているのですから、本来「世の中に求められていない」とは思うことは許されません。事実ベースでは立派に求められているのですが、それでも、私には「ライター」と名乗ることで取りこぼしている社会との関わり方、課題解決のあり方に未練、執着があります。そのくせ、書くこと以外に大した自信も実績も無いので、グズグズ言い続けている、というわけです。

要は、「2枚目の名刺を作れ」という話なのだと思いますが、なかなか思い至りません。noteでウダウダ書いていても、それこそ「掃いて捨てられる」情報を増やすだけですから、もう少しいろいろな方に相談してみたいと思います。


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