「書く人」だけ、を脱したい(ループ)
こんにちは。2月も中旬になり、激しすぎる三寒四温に振り回されるこの頃ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
私と言えば、深刻な体調不良と納期ラッシュが重なった時は「もはやこれまでか」と思いましたが、全体を俯瞰すれば仕事は順調です。プライベートでも時々嬉しいことや楽しい思いをする機会があり、これ以上高望みしようという気になりません。
それから、いつも、同じ話。
ところが、相変わらず、前回の投稿と同じようなテーマで悩み続けています。
「自分はライターとして生きていて、本当にいいのか?」問題です。
ライターとしての仕事に満足はしており、最近は売上の面でもようやく安定飛行(低い空域ではありますが……)が見えつつあるのですが、そうした経済的な問題意識ではありません。
「ライター」から想起される守備範囲の狭さ
公の場に出ていって自己紹介をすると、どうしても「ライター」と書かれた名刺を差し出すことになります。相手の方にも「へぇ、フリーのライターさんですか」と納得していただけるのですが、そうしたコミュニケーションに納得しきれていない自分がいるのです。
恐らく背景には、「ライター」という言葉から想起される職業イメージが、極めて狭く偏っているからではないかと思います。直訳すれば「書く人」です。何かを書くことで解決できること、と考えれば、一般的に「情報発信」に関する領域に限られますが、情報は「掃いて捨てる」ほどに氾濫しています。多すぎるものをさらに増やそうとする職業と考えると、何となく虚しいものです。
だからこそ私は、ライターとして仕事に向き合う際、どんなオーダーであっても掃いて捨てられるような(ただそこにある以上の意味を持たないような)記事は書くまい、という意思を持って臨んでいます。とは言え、それはあくまでも個人的な職業人のプライドです。知らない人たちから見れば、「掃いて捨てられる」情報を量産する一人に過ぎません。他者からの見え方ばかりでなく、時には自己認識ですら、「世の中に求められていない職業にしがみついている私……」などと歪みがちです。「生成AIよ、いっそひと思いにぶった斬ってくれ!」と。
異なるアプローチでも社会と関わりたい
実際にはお客様からご依頼をいただいて、正当な対価をお支払いいただいているのですから、本来「世の中に求められていない」とは思うことは許されません。事実ベースでは立派に求められているのですが、それでも、私には「ライター」と名乗ることで取りこぼしている社会との関わり方、課題解決のあり方に未練、執着があります。そのくせ、書くこと以外に大した自信も実績も無いので、グズグズ言い続けている、というわけです。
要は、「2枚目の名刺を作れ」という話なのだと思いますが、なかなか思い至りません。noteでウダウダ書いていても、それこそ「掃いて捨てられる」情報を増やすだけですから、もう少しいろいろな方に相談してみたいと思います。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?