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役に立つ手段を職業で限定している場合か問題

「ライターなので」って言えるほど自分は偉いのか?いや、偉くない。

1件の取材延期で考える

先日、1件の取材が「当面延期」になりました。

取材先は、北陸地方にある物流関連の企業様です。
オンラインでのインタビューを予定していましたが、元日に起きた大地震の対応に追われているとのことでした。

状況を考えれば、やむを得ないことです。延期の連絡を受けた当日は、すんなりと納得しました。

ただ、数日を経過した今、この一件が自分の心にじわじわと圧を加えるのを感じています。私はこの状況においても、「ライター」として生きていて、本当にいいのか?と。

誰かを応援する充実感

ライターとして取り組んでいる仕事の一つに、企業の人材採用コンテンツの制作があります。代理店様との契約で、人事担当の方と現場で働く方へのインタビューをもとに、求人企業の魅力を発信するものです。地方圏の中小企業を主に、これまで70社ほど担当させていただきました。

インタビューをすると、どの企業にも、魅力的なポイントが見つかります。ただ、魅力を的確に伝えるというのは簡単なことではありません。インタビューライターとしての、私の出番です。東北に暮らす者としても、地域経済を支える企業をライティングで応援することで、この社会のお役に立とうと考えてきました。それなりの充実感と使命感を持って、一つ一つの仕事に取り組んできたつもりです。

しかし、納得できていたはずのスタンスに、疑問が浮かんでいます。

誰かの「役に立とう」と思うのならば、「ライターであること」にこだわっていていいのでしょうか?

書くことにこだわっている場合なの?

少なくとも、取材を予定していた北陸の企業様の「今」にとって、私は何の役に立つこともできません。今すぐ現地に飛んで、後片付けを手伝ったほうがお役に立てそうです(実際には足手まといになる恐れも高いのですが、この前提はややこしいので一旦脇に置きます)。

今のスタンスでは、「(人に話を聞いて)文章を書く」という条件が発生しない限り、私は誰の役にも立ちません。
考えてみれば、おかしな話ではないでしょうか?

私は本当に誰かを「応援したい」のであれば、手段をライティングに限る必要はありません。とりあえず、応援したい相手の困っていること、求めていることに耳を傾け、今の自分にできることを考えればいい話です。それが翌日に掃除を手伝うのか、店番をするのか、本来ならばどんな形にもなり得ます。

たまたま、ライティングをすることになるかもしれません。そうは言っても、高度な専門職でもあるまいし、コミュニケーションの入り口から「ライターとして」と条件を狭めることに何の意味があるのでしょうか。

職業以前に「労働力」でありたい

自分はライターである以前に、「自由業」とも訳されるフリーランスの個人事業主であり、一般に「働き盛り」と称される年代の男性なのです。
器用なほうではないので、実際に戦力になれるかは確約できません。それでも、何しろ人手不足の現代ですから、「書く仕事」をボサ―っと待っているよりも、やることは見つかりそうです。ライターというのは、私が差し出せる労働力のいくつかの方法のうちの一つに過ぎません。

そう、理屈では思うのですが、
実際のところ、どうしたらいいのか、全然分かりません。

こちらから「お役に立ちます!」と声を掛けておきながら、結果的に先方の期待に添えなかった時のことばかり不安で、行動に移すことができずにいます。口先ばかり調子良く、実践の段階でつまずいてきた経験が豊富です。自分が一番信用なりません。

結局、
1月13日もほとんど誰の役にも立てないまま、終わろうとしています。

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