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【書評】 厨房には治外法権がある 『キッチンの悪魔――三つ星を越えた男』

ほぼ毎日読書をし、ほぼ毎日「読書ログ」を書いています。382冊目。

読んでいると、古傷が痛むのよ。いや、傷なんてもう無いんだけど、熱いフライパンを押し付けられた胸が痛み、安全靴で蹴られた尻が痛む。

本書は、スターシェフだったマルコ・ピエール・ホワイトの自伝的な一冊。

彼は、ミシュランガイドの三つ星をイギリスで初めて、しかも最年少で獲得した事で知られている。

そして、初めて三ツ星を返上したシェフとしても知られている。

190センチの長身、もじゃもじゃヘアーの奥に猛禽類のような目、味見以外にろくな食事を取らずひょろひょろの身体。一日の大半を厨房ですごしており、歯に衣着せぬ物言いでシェフたちを罵倒し、気に入らない客はスグに追い出し、メディア相手に人を人とも思わない態度を取る。そして誰もが唸る抜群の料理。まるでロックスターのようだ。

イギリスの労働者階級の家庭に生まれた彼は、高校を中退しレストランに飛び込むところからキャリアをスタートした。その後、様々な有名シェフの下での修行を経て自ら店を持ち、はじめてミシュランガイドで星を取り、その星を二つ、三つと増やしていく。

彼は、私生活のすべてをなげうち、人生のすべてを厨房に捧げていた。厨房では、表題の通り「悪魔」としか言えないような振る舞いをし、他のスタッフに対し(それこそ、上司、部下関係なく)暴虐を繰り返す。

本書は、その経緯を、星への執念を、スタッフへの仕打ちを、友人や家族との確執を、結婚の失敗(二度失敗し、三度目は成功しているようだ)を、ビジネスの成功と失敗を、メディアでの毀誉褒貶を、星を巡るあれこれを、全て包み隠さず赤裸々に、ちょっとそれ大丈夫? と、読んでいるほうが心配してしまう位にぶっちゃけている。

随分と昔のことだけど、私はフレンチレストランの厨房で働いていたことがあった。なので、本書を読んでいると、その時の記憶を何度も思い出すことになった。

マルコが働いてきたシェフたちへの仕打ち、ハラスメント、悪行の数々について、その幾つかをそっくりそのまま体験してきたからだ。

タイトルが示す通り、マルコは厨房の中で悪魔の様に振る舞う暴君だった。これをよんで、マルコとはなんと恐ろしい人物なのだろうと思うのだと思うのかもしれない。確かに酷い。しかし、厨房経験者であれば、よくある日常でしか無いと感じるだろう。厨房以外では決して許されないことが、厨房では許されてしまう。

厨房とはそういう世界なのだ。厨房の中だけ憲法からして別物じゃないのかな? 厨房の中にはいれば、基本的人権すら怪しい。

私の働いていた店は10人くらいのシェフが居る中規模の店だった。料理長こそ社長とオーナーの犬で物静かな人物だったが、副料理長が拳で語り合うタイプで、何人かのスーシェフは皆副料理長の舎弟であり、残りのシェフは口答えの許されない奴隷だった。組織構造は映画で見るヤクザの世界だ。

とにかくとんでもない場所だった。殴る蹴るは普通。フライパンからバター、肉に魚に野菜、魚のあら、ありとあらゆるものをを投げつけられ、アザや生怪我をこさえていた。

そんななか、スタッフたちは何があっても下を向き料理の手を休めない、ボスも絶対だが、それ以上に料理の提供が絶対だからだ。

皆、将来の独立を、新店に高いポジションで移ることを夢見ながらじっと我慢をしていた。本書にもそんなシェフ達が大勢登場する。

マルコはなぜそこまでシェフたちに厳しくあたるのか、それは素晴らしい料理を提供する事、そしてそれらが一貫して行われる事に命をかけていたからだ。この一貫性に強いこだわりを持ったことがミシュラン・ガイドの星につながっていると彼は考えていた。

私は、マルコの成功物語を読みながら、殴られ、蹴られ、暴言をぶつけられ、厨房の隅に立たされ、終いには追い出されるシェフたちにずっと同情と羨望がないまぜになったような感情を湧き上がらせながら読んでいた。何度も言うが、彼は酷い、しかしそれ以上に彼の作る料理は魅力的に映る。素材を見極め、一貫性をもって料理し、関わるシェフ全ての血と汗と涙と恨みと怒りを包み隠し美しく皿をに盛り付ける。全てがエキサイティングで楽しそうだ。彼の下だったら、もしかしたら料理を続けていたかもしれない。

謝辞の最後に「ゴーストライターへ」と手厚く感謝をしているのが彼らしい。面白い本でした。オススメ。

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